裁判Plus 司法のリアル:小4の息子に「5年の命」の宣告 エイズと闘った母が破った沈黙 | 毎日新聞
HIV/AIDSに調査・研究で関わって40年ほど。関係者(医療関係者、行政、製薬、教育、司法)は決して忘れてはいけない。
1996年3月29日。非加熱血液製剤でエイズウイルス(HIV)感染した患者らが国と製薬会社に賠償を求めた薬害エイズ訴訟は、山場を迎えていた。
東京訴訟は午前中に和解が成立。大阪訴訟もこれに続く予定だった。
ところが協議は土壇場で決裂しかける。
原告患者の男性1人が納得できず、大阪地裁の202号法廷を飛び出した。
「和解確認書に『謝罪』の文字がない」。それが理由だった。
法廷には被告・国を代表して菅直人厚相(当時)が駆け付けていた。菅厚相は「会わせてください」と男性を追いかけた。
「人間らしく生きていきたいんです」と語る男性に、菅厚相が「自信をもって生きていけるよう約束します」と応じ、説得に当たったと当時の新聞記事は伝えている。
戦後最大級の薬害はこの日、裁判上の決着をみた。
国と製薬会社が謝罪して再発防止を確約し、原告患者側に和解金を支払う――というのが主な内容だった。
「本音は一人一人の状況に照らして解決を求めたい。そうすると、裁判が長引く」。法廷の傍聴席にいた杉山千波さん(73)も苦渋の選択で和解を受け入れた原告の一人だった。
親にも隠した病名
杉山さんの長男、信一さんは血友病の患者だった。血を固めるたんぱく質「凝固因子」が不足し、血が止まりにくくなる先天性の病気。1歳10カ月の時に診断された。
「今は良い薬があるのですよ。死ぬ病気ではありません」。医師から示されたのが70年代後半に米国から輸入され始めた非加熱血液製剤だった。
他人の血液から凝固因子を採取して濃縮させた画期的な治療薬とされ、日本で広く使われていた。信一さんも週3回、投与を受けることになった。
88年12月、小学4年生になっていた信一さんの体に異変が起きた。下血と発熱が続き、杉山さんは医師に相談した。
「長くてあと5年の命です」
信一さんはエイズを発症していた。血友病の治療に使っていた非加熱血液製剤にHIVが混入していたためだった。
医師は2年前の検査で信一さんがHIVに感染していたことを把握していながら、その事実をひた隠しにしていた。理由を問うと「死の宣告だからです」と言われた。
「良い薬で治る」との言葉に救われ、「5年の命」と突き付けられた。どちらも同じ病院からの説明で、裏切られた思いがした。杉山さんはこの時の感情を今も言い表すことができないでいる。
「死の病」広がったデマと偏見
医療の進歩により、HIVに感染しても今では1日1回の錠剤服用で日常生活を送れるようになっている。
しかし、信一さんが発症した当時、エイズは「死の病」と恐れられていた。
87年には神戸市で日本初の女性患者が死亡。日常生活では感染しないのに「接触すると感染する」「蚊が媒介する」「コップの回し飲みは危険」といったデマが広がり、「エイズパニック」と呼ばれる社会的混乱のまっただ中にあった。
杉山さんも社会にあった差別・偏見をひしひしと感じた。信一さんの受け入れ先の病院はなかなか見つからず、入院できてもトイレは個室内で済ませ、食べ残しも患者側で片付けるように指示された。
信一さんには姉と妹がいた。感染の事実を明かせば姉妹が学校に行けなくなるかもしれない。
だからHIV感染の事実は夫婦2人の胸にしまった。「絶対に知られてはいけない。隠し通さなければならない」。その一心だった。
名前代わりの原告番号
信一さんは侵された病を血友病だと信じて闘った。中学にも進学した。
しかし、熱や貧血がやむことはなく、やがて脳けいれんを起こして寝たきり状態になり、体重は10キロ台まで落ちた。
「希望は捨てていません。どうかよろしくお願いします」と主治医に伝えたかったが、「末期の症状です」と告げられ、口にすることができなかった。
発病から3年後の92年5月、信一さんは息を引き取った。13歳だった。
生前の信一さんは病気に苦しんだことに愚痴の一つも言わなかったという。「つらさを全て受け入れて頑張ったと思います」。杉山さんは、そんな息子のことを誇りに思っている。
和解案を受諾し、床に手をついて謝罪するミドリ十字の役員=大阪市中央区今橋のミドリ十字本社で
日本では、若年層を中心に1600人以上の血友病患者がHIVに感染したとされる。
信一さんの死後、杉山さんは国と製薬会社の責任を問う薬害エイズ訴訟に加わった。
原告の多くは家族のHIV感染が露呈する事態におびえながら訴訟を闘った。杉山さんもその一人。「原告番号57番」が名前代わりだった。
悲劇繰り返さぬために
和解が成立して今年で30年となる。大阪訴訟の原告遺族らは、初の手記「その扉の向こうに」を出版した。
遺族らは大切な家族を亡くした後も、理不尽な差別と偏見に苦しみ、沈黙を強いられてきた。
杉山さんも「被害者なのに、加害者のように扱われる」という思いがずっと胸の中にあった。
二度と悲劇を繰り返さないためには、何があったのかを後世に伝えていかなければならないのではないか。そう考えるようになった。
薬害エイズで長男信一さんを亡くした杉山千波さん。訴訟和解から30年を機に出版された手記に思いをつづった=大阪市北区で2026年6月11日午後3時31分、林みづき撮影
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「原告番号57番」ではなく、信一さんの母として、実名で手記を寄せた。
過酷な闘病生活を送っていた信一さんが、母の日に病院の売店でカーネーションを買ってプレゼントしてくれたこと、「今日は熱がないね」と喜びあったこと、亡くなる直前に「妹が喜ぶから」と道端に咲いていたタンポポを摘んでほしいと頼まれたこと――。言葉が見つからず、書き切れなかったことも多くあったが、杉山さんは「振り返れば発病から3年、息子と過ごした日々が、宝の思い出に変わっている」とつづった。
30年前、和解が成立した大阪地裁の202号法廷で、訴訟を担当した裁判長は「和解で全てが解決したわけでなく、出発点だ」と遺族らに語り掛けていた。
杉山さんは「薬害被害に遭ったことは隠すことではないのに、隠さざるを得なかった時期もあった。『大切な家族を亡くした遺族なんです』と言える、病名を淡々と口にできる、そんな社会になってほしい」と語る。
薬害エイズの大阪訴訟の遺族らでつくる「たんぽぽの会」が、国や製薬会社と和解して30年を機に出版した手記「その扉の向こうに」=大阪市北区で2026年6月10日午前10時21分、林みづき撮影
手記の問い合わせは図書出版木星舎(092・833・7140)まで。【林みづき】

