神への挑戦:生命科学の進歩が問う「命」 宗教学者・島薗進さんが出した答え | 毎日新聞




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 最先端の生命科学は、しばしば倫理上の問題をはらむ。それを突き詰めると「命とは何か」という問いに突き当たる。国や民族によって宗教や死生観が異なる中、共通する概念を築くことはできるのか。宗教学者の島薗進さんに聞いた。【聞き手・松本光樹】



 ――バイオテクノロジーの発展が止まりません。

 ◆脳死臓器移植や体外受精が出てきたあたりから、バイオテクノロジーの発展で「病気を治す」という範囲がどんどん広がってきています。ゲノム解読も速度と費用が安くなって、今や望めば誰でも数万円を払って自分のゲノムが分かる。ゲノム編集ができると、自分の遺伝子を作り変えることも「医療だ」といって進んでしまう。卵子凍結も21世紀に入ってから普及しています。
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 以前はそう簡単に生殖細胞を利用することもできなかったわけですが、できるようになり、どんどん歯止めがなくなってきています。技術革新のスピードが速すぎて、倫理が追いついていかない状況です。望む人がいて、それが企業的に利益になる。そういう科学技術を倫理的に抑制することができなくなってきています。「すべりやすい坂」を転がっていきそうな状況です。

 ――生命倫理はこれまで、科学に歯止めをかけられていたのでしょうか。

 ◆例えば人工中絶の例があります。欧米では「受精の瞬間から人間である」という考え方が浸透していました。キリスト教の教えである「殺してはいけない」は受精卵にも当てはまるのだという考えが、一つの歯止めになっていました。1990年代ごろまでは同様の倫理で対処できていました。

 ところが生殖補助医療やヒト胚利用などの生命科学が急速に発展し、これまでの論理では処理しきれなくなってきています。国際的な倫理体系を形成しなくてはいけないと思っています。一国の中や特定文化圏の中でやっても、他の国や文化圏で抜け駆けをされてしまってはどうしようもないので、国際的な合意が必要になります。

 ――命についての考え方と宗教にはどんな関係があるのでしょうか。

 ◆従来の生命倫理は「人間の尊厳」がベースになっていました。キリスト教では、人間は神の御姿を似せて作られたものであり、生物の中でも特別な地位を持つ。これが尊厳の根底にあります。これには一定の直感的な理解しやすさがあります。儒教でも人間は「万物の霊長」、仏教でも人間だけが「発心する」、つまり「道を修めたいと思う」とされ、共通する部分があります。

 ただ、仏教でいうと輪廻(りんね)転生で動物にも生まれ変わるとされる。人間だけではなく全てのものに神が宿るという考えもある。アジア圏では、人間だけが特別という意味が少しやわらいでおり、「受精の瞬間から人間である」という考え方もアジアでは強くありません。

 ――現代でも、命を考える意識に各国で差があるのでしょうか。

 ◆各国各文化圏の相互理解はまだまだ進んでいません。例えば脳死臓器移植は日本や韓国ではあまり進んでいません。欧米から見ると、利他心が足りない、愛が足りないと映りますが、日本では脳死を人の死と見なすことに無理があるという考えが支持を得ています。「人との関わりの中に命がある」という考え方があることや、脳こそが生命のおおもとであるという西洋的な考えに違和感を持っていることが背景にあります。

 ――グローバルに通ずる倫理とはどのようなものでしょうか。

 ◆それを形成するのはとても大変な作業ですが、手がかりはあります。2000年代前半に米国で行われた、能力や機能の増強を目指した心身への医学的介入「エンハンスメント」に関する議論があります。生命科学の進展を受けて、大統領直轄の生命倫理評議会を開いて議論をしました。


 委員だった米ハーバード大の政治哲学者、マイケル・サンデル氏は、命を操作することによって「恵みとしての命」としての感覚が失われてしまうと考えました。命は人間を超えた何かから恵まれるという感覚です。

 例えば、子どもがどう育つかは親には分からないですが、その見通せなさを受け入れることこそ大切だというのです。そこから派生して「弱いものを育む」「助け合い」「連帯」「謙虚さ」という倫理的な価値が生まれます。人間は自分の力だけで成し遂げているわけではなく、恵みの中で何かを達成しているというのです。

 これまで予期せぬものだと受け入れてきたことが、科学技術の進展で、自ら変えられるようになる。すると、それに伴って自己責任が生まれます。例えば、がんになったとして、以前は受け入れるしかなかったですが、ゲノム編集ができると「ゲノムを解析して原因の遺伝子を外しておくという選択をすべきだった」という議論になってしまう。本当はさまざまな事情でそうなっているのに、回避するための選択をしなかった自分自身に責任があると考えてしまい、責任の過剰につながるのです。

 この「恵みとしての命」という考え方は、アジア人でも無神論者でも受け入れることができるのではないかと思っています。

 私は、他のものとの関わりや過去、未来との「つながりの中での命」という観点で世界で合意ができるのではないかと考えています。過去から受け継いだものを、現代では不便だからといって、未来に影響を与える形で変えていっていいのかという論点も含まれます。まだ試みの段階ですが、いずれにせよ「個としての生命に特別な尊厳がある」という従来の考え方を超えていかないといけない。それでは何か足りない。むしろ傷つきやすさ、弱さを持つ命は、依存してこそ生きていける。そこから人間の生きがいが生まれるのだという観点が育っていかないといけないんじゃないかと思います。


 ――そうした枠組みを作るためにはどのような努力が必要でしょうか。

 ◆SDGsとか環境問題については、未来への影響を抑えるために共通の枠組みを作ろうという発想が、実現に少しずつ近づいています。戦争や平和についても、いまだにウクライナ戦争やガザ侵攻があるような状況では楽観はできませんが、非戦条約やいろんな取り組みがあって一応そうした歩みがある。ただ、命の始まりや終わりの議論になると、まだまだそうした状況になっていません。

 日本では生殖補助医療について日本産科婦人科学会(日産婦)がガイドラインを作って対応しています。ただ法的な拘束力がないので、勝手にやってしまう人がいます。例えば着床前検査ですね。政府は分かっていながら、ずっと何もしていない。これについて日産婦は政府に対応を促している状況です。私はこういったボトムアップで日産婦がやっていることに可能性を感じています。生殖補助医療に限りません。さまざまな場所で一つ一つ議論を深めていかなければいけません。

しまぞの・すすむ

 1948年、東京都生まれ。宗教学者。大正大地域構想研究所客員教授。東京大大学院博士課程単位取得退学。同大教授、上智大グリーフケア研究所長などを歴任。政府の生命倫理に関する有識者会議のメンバーを務めた。