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保阪嘉内 宮沢賢治 風の三郎

山は博物館:八ケ岳・裾野に「風の三郎」石碑 賢治の名作 親友・嘉内の影響か | 毎日新聞





毎日新聞 2023/1/18 地方版 有料記事 2519文字


 <ふるさとの山に向ひて云(い)ふことなしふるさとの山ハありがたきかな>

 八ケ岳の東の裾野、山梨県北杜市の林内に「風の三郎」と刻まれた石碑がひっそり建っている。「風の三郎社」という風神を祭る小さな社があったことを示す。これを、南の旧駒井村(現韮崎市)で育った保阪嘉内(かない)(1896〜1937年)から同い年の親友、宮沢賢治が聞き、童話「風の又三郎」が生まれたのではないか――と言われる。

 風の三郎社は、八ケ岳おろしの強風を静めるために信仰されてきた。嘉内は旧制甲府中(現甲府第一高)2年だった11年7月、八ケ岳登山の帰りに立ち寄り、倒壊していたほこらのスケッチを残している。そのほこらは今、南東約1・5キロの利根神社にある。

 嘉内もよく登った八ケ岳は赤岳(2899メートル)を主峰とする山々の総称だ。1814年完成の地誌「甲斐(かい)国志」は、「八ツ嶽(だけ)」に権現岳や赤岳、編笠岳などと共に「風ノ三郎ケ嶽」があると紹介している。その名前の山は今はないが、嘉内の次男・庸夫(つねお)さんは著書で阿弥陀(あみだ)岳(2805メートル)のことだと指摘している。

 童話は、高田三郎という転校生が風と共に来て、友達と遊ぶうちに「風の又三郎」だと言われるようになる話だ。最初に賢治が書いた「風野又三郎」には「甲州」「八ツ岳」「富士川」と、賢治が訪れていないはずの山梨県が登場。嘉内との不思議な一致がある。

 童話「銀河鉄道の夜」でも2人のつながりが示唆される。嘉内は1910年に現れたハレー彗星(すいせい)が、南アルプスの鳳凰三山から甲斐駒ケ岳の上空を左から右へ尾を引いて飛ぶ様子を甲府市でスケッチし、<銀漢ヲ行ク彗星ハ/夜行列車ノ様ニニテ/遥(はる)カ虚空ニ消エニケリ>と書き添えた。「銀漢」は銀河のことで、そうなると彗星はまさに銀河鉄道。主人公ジョバンニは賢治、旅の同行者カムパネルラは嘉内がモデルとする説もある。

 嘉内の地元にある「保阪嘉内・宮沢賢治アザリア記念会」会長の向山三樹(みき)さん(64)は「2人は登山や文芸など趣味も同じ。記録はないが、さまざまなことを語り合う中で、嘉内が賢治に風の三郎やハレー彗星のことを話した可能性は十分ある。親しい間柄だけに賢治は影響を受けたのではないか」と推測する。

 嘉内は地主の家に生まれた。郡役所に勤務し、農地は小作人らに任せた父親の姿を否定して自ら畑で苦労を味わい、ロシアの小説家トルストイから農民の崇高さも知った。農学を修めて故郷の村長になり、幸せで模範的な「花園農村」を建設することが夢だった。


 19歳だった16年、賢治がいた盛岡市の旧盛岡高等農林学校(現岩手大農学部)に1年遅れで入学。寮の同室になり、親しくなった。2年の時、賢治も含めた学生4人を中心に同人誌「アザリア」を創刊。短歌などを掲載した。だが、進級を前に学校から除名された。理由は明らかにされなかった。ただ、第5号の「断想 社会と自分」で<おれは皇帝だ。おれは神様だ。おい今だ、今だ、帝室をくつがえすの時は、ナイヒリズム>と書いたのが、危険思想の持ち主と誤解された可能性がある。本人はそんな人物ではなく、単に興を添えるつもりだったのかもしれない。アザリアは第6号で終わった。

 盛岡を去った嘉内は故郷で農業に取り組んだり、東京で陸軍に入営したりしたが、賢治との親交は続き、はがきや手紙をやりとりした。賢治が24年4月に初出版した詩集「春と修羅」も贈られた。現物の傷みからすると熟読したようだ。2冊目で24年12月に生前最後の出版となった童話集「注文の多い料理店」も、今は現物は行方不明ながら受け取っている。向山さんは「離ればなれでも、嘉内には読んでほしかったのだろう」と想像する。

 25年を最後に、賢治から嘉内へ送られた手紙は残っていないが、26年に5年ぶりにつけ始めた日記には、アザリア同人を懐かしむ言葉が登場する。嘉内が知人と雑談すると、まだ無名の賢治を話題にして「今に見ろ。文壇に高く評価されるであろう」と話していたという証言も残る。庸夫さんは著書に「嘉内は心に友情を抱き続けただけでなく、賢治の天才をも固く信じていた」と記している。

 賢治は33年に病死し、嘉内も4年後に胃がんのため40歳で世を去った。アザリア会メンバー3人から受け取った手紙など182通はスクラップブックに整理していた。賢治の分は73通ある。嘉内の孫の新村(にいむら)美佳さん(59)は「常に身近に置いて大切にし、亡くなる時も枕元にあった。友情の証しだと思う」と話す。【去石信一】
風神の呼び名、各地に

 風神を「三郎」と呼ぶ理由について、平安時代の武将で新羅三郎とも呼ばれた源義光に由来するという説のほか、民俗学者の吉野裕子氏は陰陽五行説にそれを求めるが、定説はない。三郎を祭る行事はほとんどが廃れている。

 「三郎」の名は新潟県に多い。各種の調査報告によると、例えば旧太田村(現阿賀町)では、「風の三郎様」が通る旧暦6月27日、集落の両側の入り口に、吹き飛ばされそうな粗末な小屋を建て、通行人が壊すことで風神が集落中心を避けて通ったことにした。「三郎山」の頂に同様の小屋を建てた集落もあった。風が吹くと子供は「風の三郎様、そよ吹いてたもれ」と叫んだという。旧西川村(現阿賀町)では「マタサブロウ」や「サンブル様」とも呼んだ。

 東北では、岩手県の旧西根町(現八幡平市)で、強風が吹くと子供は「風の三郎が来た」と言って家に閉じこもった。福島県では、大戸岳(1416メートル)の山頂近くの狭い尾根の岩場が「風の三郎」と名付けられ、墓地石山(580メートル)の山頂近くにも巨石「風の三郎石」がある。山形県南陽市には<風の三郎/風どんどん吹いてこい>というたこ揚げの歌があり、真室川町と最上町でも違う歌詞に登場する。

 長野県中川村の陣馬形山(1445メートル)中腹には「風三郎神社」があり、約500メートル登った所の大岩の亀裂が奥宮。ここから風が吹くと信じられた。沿岸でも、新潟県の粟島と佐渡島、静岡県の伊豆半島、東京都の伊豆諸島などにも三郎信仰の地域がある。





心友―宮沢賢治と保阪嘉内
山梨ふるさと文庫
2017-07-01


宮沢賢治「銀河鉄道の夜」を読み解く 大村 紘一郎 アスパラ社 2022


宮沢賢治と保阪嘉内の交友におけるクラーク博士の教えが大島正健甲府中学校長(クラーク一期生)を通じて影響していることは明らかですね。もちろん石橋湛山先生も。良い師に恵まれる事が人生を豊かにする。
そこには、利己を嫌い、利他に生きる嘉内と賢治の共通する世界があった。


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備忘録 保阪嘉内 宮沢賢治

河本緑石の書簡/書簡1(大正7年5月13日):宮沢賢治と「アザリア」の友たち:So-netブログ


保阪嘉内(韮崎市)





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