井戸の底に浮かび上がる幾多のひび割れは、水源に恵まれた地域に走った衝撃を物語っていた。JR東海が進めるリニア中央新幹線事業の前に立ちはだかるのは、静岡県の水問題だけではない。リニアのトンネル掘削工事が行われていた岐阜県瑞浪市では2月、個人用の井戸やため池など計14カ所の水位低下が発覚した。瑞浪市の現場を歩くと、水枯れした井戸を前に立ち尽くす住民の姿があった。【真貝恒平】
<主な内容>
・井戸は信仰と豊かな水源の象徴
・トンネル工事一転「即時中断」
・「リニアのメリットない」
・JR東海の対応「検証が必要」
名古屋市中心部から車で約65キロ。今月21日、いくつかの山あいを抜けると、のどかな田園風景が広がる盆地の瑞浪市大湫(おおくて)町にたどり着いた。稲が植えられた田んぼの水面(みなも)は太陽の光を反射して輝き、周りの風景を映し出していた。
大湫コミュニティーセンターによると、この地域には約120戸、約300人が住んでいるという。かつて旧中山道の宿場町だった地域は、当時の面影を残す。観光パンフレットによると、「湫」は沼地や湿地帯を表す言葉で、峠に挟まれた低い場所で水がたまりやすいことから、地名に使われたという。
「天王様の井戸が枯れるなんて人生で初めてだ」。80代の男性は井戸の底をのぞき込み、いまだに驚きを隠せない様子だ。
井戸の隣には「天王様の井戸」と刻まれた石碑がある。この地域は宿場町として栄えた歴史から、生活用水や旅人、人馬の飲用水などに使われた井戸が点在し、天王様の井戸もその一つ。神の名をとったこの井戸は300年以上の歴史を持ち、「枯れたことがない井戸」として、人々の信仰と豊かな水源を象徴する存在だった。
男性が井戸の異変に気づいたのは3月中旬ごろ。ふとのぞき込むと、いつもあるはずの水が消えていた。男性は「そもそも井戸の水がなくなるなんて考えたことがないから……。『この先、大丈夫なのか』と心配」と不安げな表情を浮かべる。暗闇にわずかな陽光が差し込んだ井戸の底はまだ枯れたままだった。
田んぼへの影響は
名古屋市からリニアの中間駅となる岐阜県中津川市までの途中に位置する大湫町では、地下を通る日吉トンネル(南垣外工区、全長7・4キロ)の掘削工事が進む。しかし、掘削現場で昨年12月と今年2月に湧水(ゆうすい)が発生していた。14カ所の水位低下が見つかった2月、JR東海は瑞浪市と対応を協議したが、この問題がマスコミで大きく報道されたのは5月に入ってからだった。
小高い山の手前にあるため池には、数日前に降った雨水がわずかにたまっていたが、底は枯れた痕跡であるひび割れができていた。近くに住む奥村研さん(74)は1年ほど前に上水道に切り替え、井戸は使っていなかったため、直接の被害はなかったという。「ため池が枯れたことは驚いたが、地下を工事すると聞いて、こんなことになるのではと心のどこかで思っていた」と振り返る。
JR東海の丹羽俊介社長は16日の定例記者会見で、水位低下と工事の因果関係について「周辺で地下水に影響するような工事が行われていないことから、本工事の影響の可能性が高い」として、工事の一時中断を明らかにした。工事は大湫町の中心部である「大湫盆地」の地下を通る。この時点では、真下の地質を詳細に把握するため、盆地手前まで掘り進めた後にボーリング調査を実施する予定だった。
だが、情報が十分に届いていなかった岐阜県や地域住民から批判や不安の声が相次ぎ、同社は20日に工事の即時中断を発表した。同社は湧水を止めるための薬液注入を開始するとともに、代替の水源となる井戸を町内に設置する工事に着手。水位が低下した井戸などから水を引いていた世帯について、上水道に切り替えて水を利用できるように応急措置を実施しており、追加の水道料金や工事費は同社が負担することにしている。
70代の男性は「日常生活は戻りつつあるが、今後、田んぼに影響しないか」と不安を語る。そして、こうつぶやいた。「この地域に住む高齢者にとって(リニア中央新幹線は)何もメリットがない」
専門家「事前対策できていたのか」
国土交通省のリニア中央新幹線静岡工区モニタリング会議や、静岡市中央新幹線建設事業影響評価協議会の委員を務める元大同大教授の大東憲二氏(67)=環境地盤工学=は「掘削工事に伴う湧水の発生は珍しくない」としつつ、今回の問題について「大湫盆地の手前を掘削していた時に井戸やため池の水位が低下しているので、想定よりも早く水位の低下が発生した可能性がある」と推測する。
報道公開されたリニア中央新幹線、日吉トンネルの工事現場=岐阜県瑞浪市で2019年11月26日、鮫島弘樹撮影
現場付近には断層があることが指摘されているが、大東教授は「断層の位置や特性は実際にトンネルを掘削しないと把握できないのが現状」と説明。その上で「地下水が生活用水や農業用水に利用されている地域でトンネルの掘削工事を行う場合、水位が低下して影響が出ることを前提とした水源の事前対策、環境管理の面で自治体や地域住民にきめ細かく伝える連絡網がしっかりできていたのか。今回の問題を機に再度検証すべきだろう」と提言する。
リニア中央新幹線
磁力で車体を浮かせる技術を使って走る鉄道。JR東海が国家的プロジェクトとして、東京の品川から大阪までを結ぶ計画で整備を進めている。最高速度は時速500キロを超え、品川―名古屋間を40分、品川―大阪間を約1時間で走る。2027年に名古屋までの開業を目指していたが、静岡県内のトンネル工事を巡り、大井川の水量や生態系への影響を懸念する県との話し合いがつかず、JR東海は3月、27年の開業を断念すると発表した。