もう一つの「本土決戦」計画 要塞の島と化した韓国・済州島 | 毎日新聞




ネット配信される韓国ドラマではリゾートとして良く描かれる済州島
日本軍の戦跡がまだまだあるんですね。

以下記事

 カフェの店内に設置されたスクリーンに、セピア色の古い動画が映し出された。巨大な地下壕(ごう)から、軍服姿の男たちが次々と出てくる。その後、爆発が起きて煙が舞い上がる――。

 今年10月16日、韓国南西部の済州島(チェジュド)。住民や専門家が参加し、戦跡について考える勉強会が開かれていた。この映像は、日本の敗戦後、米軍が済州島にいた旧日本軍を武装解除する様子だ。壕は旧日本軍の軍事拠点だったため爆破された。1945年10月1〜6日に米軍が撮影し、この場面を含み、計8分15秒になる。聖公会(ソンゴンフェ)大(ソウル市)の田甲生(チョン・カプセン)教授(54)が米国立公文書館で発見した。過去に写真は見つかっていたが、映像としては初の公表となった。


 朝鮮半島の各地に残る「本土決戦」拠点 変わり始めた人々の思い

 島内には旧日本軍の遺構が多く残る。近年では行政の主導で一帯を平和公園に整備する計画が進む。住民の間でもこうした「戦争遺跡」に関心が高まり、後世にきちんと伝えようとする機運が広がっている。戦後80年が過ぎ、当時を直接知る「生き証人」が減りつつあるためだ。

 今回の映像は、平和公園整備についての勉強会で公開された。旧日本軍の戦跡に詳しい四川外国語大(中国)の菊池実・元教授は「当時の様子が詳細に分かる貴重な史料だ」と指摘する。

 特に島南西部には大小さまざまな壕がある。郷土史家の梁信河(ヤン・シンハ)さん(87)が、ある壕の入り口まで記者(福岡)を案内してくれた。
郷土史家の梁信河さん。壕の建設に兄が動員されたと証言した=韓国南西部・済州島で2025年10月15日、福岡静哉撮影


 全長約1・3キロで幅は最大5・5メートル。最も高いところで4・5メートル。面積は5500平方メートル超もある。「島の住民が交代で掘削作業などに動員された。私の兄も働いた」と梁さん。動員された人々の証言集によると、食事は粗末で、ツルハシなどを使った過酷な労働を強いられたという。

 この壕の付近の海岸沿いには、計16の壕が今でも口を開けている。弾薬を積んで水中で敵艦に体当たりする特攻艇「震洋」の出撃基地だった場所だ。

 また、地上にも壕はつくられた。軍用機を格納するコンクリート製の「掩体(えんたい)壕」だ。梁さんは「敵の目から機体を隠すためにつくられ、今も19の掩体壕が残っている」と話す。日本国内にも、これほど多くが残る場所はない。

 島の戦跡を調査してきた済州大の趙誠倫(チョ・ソンユン)名誉教授(71)は「済州島には旧日本軍の壕が計700カ所以上ある」と指摘する。


「決7号作戦」の最前線に

 これほど多数の壕が設けられた理由は「本土決戦」だった。

 太平洋戦争末期、日本は敗色濃厚となり、大本営は上陸してきた米軍を迎え撃つ本土決戦の準備を本格化させる。45年4月、関東、九州など7カ所の上陸予想地点に基づく「決号作戦」の立案を決定。日本領の一部だった朝鮮半島も本土決戦の拠点として位置付けられ、済州島は「決7号作戦」の最前線となった。戦争末期には約7万5000人の兵が集結。「要塞(ようさい)の島」と化した。

 旧日本軍の史料にはこんな予測が記されている。「もし北九州方面が(上陸地に)選ばれれば、まず済州島に基地を置くだろう。済州島攻略の公算は極めて大きい」。45年6月8日、大本営海軍部の豊田副武(そえむ)・海軍軍令部総長も御前会議で、米軍の済州島侵攻の可能性を説いていた。

 同月23日、沖縄戦で日本軍の組織的な戦闘が終わり、その後米軍は沖縄を占領した。事態が切迫しているとみた旧日本軍は7月、済州島の高齢者や子どもら約5万人を朝鮮半島に避難させる計画を進めるが、船が米軍の機雷に触れて沈没。計画は中止となり、住民約23万人が島に残された。島の行政を統括していた千田専平・済州島駐在事務官は戦後、こう証言している。「(済州島に)残る者は米軍上陸の際に山中に入って(旧日本)軍と行動を共にする準備をしていた」

 だが広島、長崎に原爆が投下され、日本はポツダム宣言を受諾し降伏した。7歳だった梁さんはこの時を記憶している。「日本人の教師たちが机をたたいて悔しがっていた」

 沖縄で旧日本軍は、地下壕に身を隠して地上戦を続け、9万人以上の民間人が犠牲になった。済州島での本土決戦は回避されたが、梁さんはこう言う。「戦争を続けていれば、済州島でも沖縄のように多くの人が死んでいただろう」

 窮地に追い込まれた旧日本軍はさらに、済州島の陥落後の事態にも考えを巡らせていた。

 決戦の拠点づくりを、朝鮮半島全体に進めていたのだ。人口が集中するソウルにあった軍司令部を山間部に移す構想もあった。

 軍司令部の痕跡は今も残っているのか。旧日本軍の史料では司令部の移転先が韓国中部の大田(テジョン)にあったと記されている。記者はそれを確かめようと、大田に向かった。【福岡静哉】