山は博物館:番外編 愛した富士、響く砲声 裾野に軍演習場、矢内原「汚された」 | 毎日新聞
非戦を貫き、東京帝国大(現東京大)を追われた矢内原忠雄は、富士山(3776メートル)を愛した。山中湖畔からの風景を賛美していたが、裾野を軍の演習場にされ悲嘆する。キリスト教徒の矢内原には、神が創造したこの世界で、美しい日本の象徴たる富士山が、戦争に利用されることが許せなかった。【去石信一】
登山好きの矢内原は兵庫県立第一神戸中(現県立神戸高)時代、「遠足部」(山岳部)発足の中心人物だった。同窓会誌で「山水を跋渉(ばっしょう)する際、何の偽善有らむや、邪念有らむや、見江(みえ)を張る必要有らむや」と高らかに宣言している。
著作によると、第一高校(現東京大教養学部)在籍中、富士山について、群馬県の妙義山、群馬・長野県境の浅間山と対比して書いた。「奇ヲ衒(てら)ハズ荘ヲ誇ラズ黙々微笑シテ襟度(きんど)(度量)亦(また)大ナラズヤ」
初登山は20歳の時で、帝大に進学する直前の1913年の夏。静岡県側から登り、山頂で日没を迎えた。「一人見てゐた僕は地のものではなかった。ああ此(この)の落日、神の栄光」と感動。太陽が昇ると言われる国の「日本人が日の出を愛するのは尤(もっと)もだ。併(しか)し何故(なぜ)荘重深遠な日没をもっと愛さないんだらう」と思いをつづった。翌日、山梨県側に下山した。
帝大教授になっていた35年、山梨県の山中湖畔に別荘を持つ。富士は西側にあり、朝日が照らす。「赤富士が帽子雲をかぶつて正坐(せいざ)して居(い)ました。いゝ山だ」と知人に便りを書いた。
しかし翌36年、陸軍によって裾野は演習場に変わる。矢内原は43年に足を踏み入れ、「燒(や)けた木はポンペイ廃墟から発掘された死骸のやう」と、怒りを込めて書いている。今の陸上自衛隊・北富士演習場だ。
矢内原が師と仰ぐ伝道者・内村鑑三に「初夢」と題する文章がある。<恩惠(おんけい)の露、富士山頂に降り、滴(したた)りて其(その)麓を霑(うるお)し、溢(あふ)れて東西の二流となり>で始まる。東の流れは太平洋、西は大陸を渡る。矢内原は46年の講演で、植民地支配と戦争に走った国を批判し、「日本から世界平和の音づれが世界に流れ出る夢を見たに拘(かかわ)らず、富士山は汚され、日本は国際関係から遮断せられた」と、初夢が裏切られたことを悲しんだ。
戦後、演習場は米軍が接収。「飛行機の爆音と実弾射撃の砲声が昼となく夜となく静寂を破り、素朴であった山中湖畔は問題の基地となった」などと繰り返し嘆く。その後に日本に返還されたが、米軍と陸上自衛隊の使用が続き、「美しい富士の裾野を実弾射撃で荒らすほど、不似合いはない。日本全土より砲声を絶て。世界全土より戦争と戦争の練習を止ましめよ」と訴えた。
砲声は現在も鳴り響いている。
思想普及、陰に女性速記者
矢内原忠雄(中央)と共に写真におさまる籾山民子さん(左隣)。50歳の時で病気は治っている=「野に匂ふ花のように」から
矢内原忠雄の思想が世に広まり、後世に残ったのは、速記者を務めた籾山民子さん(1907〜2002年)の尽力が大きい。膨大な回数の講演や講義を献身的に速記し、清書した。矢内原の資料の多くを管理するNPO法人今井館教友会(東京都文京区)の藤田豊理事(67)は「ここにある3分の2は籾山さんがいてこそ」と話す。
籾山さんについて、死後に知人らが思い出を寄せた追憶集「野に匂ふ花のように」の中で、編集者は「大きな功績には、不幸と苦しみも関連していると思います」と記している。それは1924年、16歳の時にかかった皮膚結核だ。若い女学生の顔にオオカミがかんだような傷と言われる「狼瘡(ろうそう)」ができた。
本人は後に「五、六月頃、青葉の世界に人もわれも美しうなる頃だった」と発症時を振り返っている。恨み言はない。この年の3月に洗礼を受け「神様につき随(したが)はうと真心を献(ささ)げた者に対する神様の恵みの印でもあり、神様の光に照らされたが故(ゆえ)に明かにせられた己(おの)が罪の印とも思へる。其(その)頃私はひたすら潔さを求めた」。
籾山さんの写真はほとんどなく、生涯独身でもあった。編集者は「誇りや幸せも取り上げられたように思います。ただ、口から、苦しみや不平を聞いたことはなく」と書いている。知人は「(傷は)痛ましいものに見受けられましたが、いつもにこやかな表情で交わり、澄んだ声と輝いている目で和ませて下さる方でした」と人柄を表した。
「願望」という籾山さんの詩がある。
<野に匂ふ花になりたい/しめやかな雨になりたい/さわやかな陽(ひ)になりたい/悩みたまふ人の子の為(ため)/わが魂、清水と湧け/わが魂、香油(こうゆ)と注げ/わが魂、焰(ほのお)と燃えよ/祈りたまふ人の子の為>
こんな心の持ち主だった。
籾山さんは、矢内原が東大を去った37年から、死去する61年までの24年間、講演や講習の言葉を書きとめ続けた。早い時間から会場準備にも働いた。質素な服装で、謝礼は受け取らない。英語の家庭教師で生計を立て、矢内原の講演旅行に自費で同行した。
難治と言われた病は、戦後に得たGHQ(連合国軍総司令部)の注射薬と、皮膚科医の内服薬が効いた。ようやく治った後も、矢内原を支えて信仰の道を歩み、94年の生涯を老衰で閉じた。編集者は「速記などを通じ『仕える』人生を走り抜きましたが、独自の光彩を放った人であった」とたたえた。
雪崩犠牲の学生を追悼
雪崩に遭って死亡した東京大学生の遺体収容作業=山梨県の富士山中で1954年11月30日
1954年11月28日、富士山の山梨県側で大規模な雪崩が起きた。冬山訓練をしていた日本大と慶応大、東京大の学生約40人が遭遇し、15人が死亡した。矢内原忠雄はこの時、死者5人を出した東京大の学長だった。著作には「登って霊を弔いたいと願っていたが、在任中は果たすことができず」、退職後の58年9月に「素志を達した」とある。5〜6合目の遺体発見場所、自らの言葉「若人の霊は雪よりも白く」と刻まれた追悼碑が建つ地を生還者3人らと訪れた。
降雪が早い富士は、初冬の冬山訓練の絶好地と考えられていた。東大スキー山岳部でも11月の恒例行事だった。
部報によると、28日朝、5合目のテントを出発。湿った雪が約30センチ積もっていた。登り始めると意外に雪が深く、風も強かった。本州南岸を低気圧が東進中で、暖気が入り、積雪が緩んでいたとみられる。9合目付近で発生した雪崩は午前10時40分、7合目手前を約30メートルの縦列で進んでいた部員を飲み込み、先頭から2〜6番目の学生が死亡した。
部報で部員とOBは、雪崩は「初冬の富士では殆(ほとん)どない」と考え、警戒心が薄かったことを明かしている。斜面の積雪は寒気ですぐ凍ると考えられたからだ。一方で滑りやすく、隊のリーダーによると、注意は「滑落に向けられた」。日大の遭難報告にも同様の記述がある。
勤労者山岳連盟の元会長、西本武志さん(84)は「斜面はどこでも雪崩が起きると考えるべきだ。雪も凍っている所、緩んでいる所と一様ではない。そもそも、高校を出たばかりの学生が、富士で訓練することには反対だ。まずは上越国境(群馬・新潟県境)辺りで雪と氷に慣れるべきだ」と指摘する。
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