大きな力に振り回され続けた過疎の村 「川辺川ダム」が突き付ける教訓 | 毎日新聞



どうしてもダムを造りたい人々。



以下記事

 熊本県の球磨(くま)川支流・川辺川に国が計画している国内最大規模の流水型ダムについて、水没予定地がある同県五木村が4月、建設受け入れを表明し、計画は大きな節目を迎えた。
計画は二転三転 蚊帳の外だった地元

 五木村は28年前、苦渋の決断で着工に同意したが、計画は「脱ダム」路線で白紙撤回され、近年になって復活した。方針が曲折したのは国や県の意向が働いた結果だが、当事者たる五木村は国や県から2度目の同意を求められた最近まで、蚊帳の外に置かれてきた。まちの未来は自分たちで決めるという地方自治の根幹を長年、村から奪ってきた国や県の責任は重い。

村民集会で「ダムを前提とした村づくりにかじを切る」との表明後、村民の質問に答える熊本県五木村の木下丈二村長(中央)=同村で2024年4月21日午前11時半、山口桂子撮影

 4月21日、五木村内にある小学校体育館での村民集会。木下丈二村長が約140人の村民を前に「本日をもって、ダムを前提とした村づくりにかじを切っていきたい」と宣言した。村民からは「住民投票はしないのか」「村長の意見だけではすまされない」との声も飛んだが混乱はなく、集会は約2時間で終了した。

 旧建設省が治水対策としてダムの建設計画を発表したのは1966年。中心部が水没する五木村は賛否を巡って村民が分断されたが、30年後の96年に着工の協定書に調印。反対運動は続いたものの、ほとんどの村民は高台に移転し、周辺道路の付け替え工事などが進められた。

 当初は治水目的だったダム計画は、農業利水と発電も加わる多目的ダムとなり、建設費は76年当初の350億円から、98年に約8倍の2650億円まで拡大。2003年には、ダムによる利水での負担増を懸念した農家が起こした訴訟で国が敗訴するなどし、計画の見直しが迫られた。

 先行きが見通せない中、08年に就任した蒲島郁夫前知事は「ダムによらない治水対策を追求する」として、計画の白紙撤回を求めた。「脱ダム」を掲げた当時の民主党政権は09年、計画の中止を決めた。
水害受け「脱ダム」から一変
ダム予定地川辺川

 ところが、球磨川の氾濫などにより県内で死者・行方不明者69人(関連死2人を含む)を出した20年7月の九州豪雨を受け、蒲島氏は同11月、建設容認に方針を転換。計画は、環境への配慮として、水をためる貯留型から洪水時にのみ水をせき止める流水型に修正され、再び政権を握った自公政権によって復活した。

 五木村では、30年近く前に計画を受け入れたとはいえ、長年凍結されていたことから既に「ダムのない村づくり」が村の将来像となっていた。しかし、方針転換した国と県は23年5月、村との間で100億円規模の地域振興計画案に合意。同意に向けた「外堀」を埋められ、村は2度目となる「同意」に至った。
自分たちで将来決められない「諦め」

 私は23年春に熊本支局に赴任して以降、この問題について取材を重ねたが、違和感を抱き続けてきた。どこまでも村民不在の議論が続き、2度目の「同意」に向けた一連の流れは、村民の「諦め」に乗じて決まっているようにしか見えなかったからだ。

 4月の集会で住民投票を求めた元役場職員の黒木一秀さん(67)も「こうした場で発言する人はいつも同じ。大部分は沈黙したままで、それは諦めからですよ」と明かす。

 なぜ村民は諦めの境地に至ってしまったのか。この問題を研究してきた熊本大の土肥勲嗣講師(政治過程論)は「村民たちは、ある日を境に村の方針が変えられることを繰り返し経験してきたことで、『村をどうしたいか』といった志や意思を持つ機会を奪われてきた。地方自治の否定が招いた結果だ」と指摘する。

 「五木の子守唄」で知られる五木村の歴史は縄文時代にまでさかのぼり、平家の落人伝説も残る。ダム建設は先祖代々の古里の未来がかかる問題だからこそ、村民本位の議論がなされるべきなのに、村が計画に対して意思決定する機会は限られてきた。
「小さな村が路頭に迷わぬように」
ダムの水没予定地に最後まで残った空き家は6月に解体された。変転した計画は村民の暮らしを奪ってきた=熊本県五木村で、山口桂子撮影

 4月の集会後、木下村長は記者団に「公共工事は国民の財産を提供してもらって進む。国や県は約束を守り、小さな村が路頭に迷わないようにしてほしい」と目を赤くしながら語った。国や県は村の主体性を尊重してきたのか。

 「公共事業は、法にかない、理にかない、情にかなうものであれ」。国内ダム建設史上最大の反対運動で知られ、日本の公共事業の在り方を変えた下筌(しもうけ)ダム(熊本、大分県境)の「蜂の巣城闘争」を主導した熊本県小国町の地権者、故室原知幸氏の言葉だ。ダムの有効性について検証を重ね、影響を受ける地域に粘り強く説明し、対話を続ける姿勢こそ法にも理にも情にもかなう。

 半世紀以上もの間、公共事業の名の下に生活を奪われ、将来を描けなかった村民が大勢いたことを忘れてはならない。川辺川流域の住民を、また振り回すことは許されない。【山口桂子】








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「7.4球磨川豪雨災害はなぜ起こったのか」編集委員会
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「脱ダム」のゆくえ 川辺川ダムは問う
熊本日日新聞社取材班
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2010-02-10