姥捨て伝承モチーフ「楢山節考」 甲州の人情が描かせた親子愛 | 毎日新聞
深沢七郎氏は確か佐久病院で亡くなったんですよね。南木圭士さん(医師、作家)が書いていたように思います。
自分も知らない事が沢山記事には書かれていました。
以下記事
口減らしのため年老いた親を山に置き去りにする姥(うば)捨てを題材にした深沢七郎の小説「楢山節考」(1956年)は、今村昌平監督の映画の原作としても知られる。物語の舞台となった集落を訪ね、深沢の発想の源を探った。
甲府盆地の南側に大黒坂(おおぐろさか)=山梨県笛吹市境川町=という集落がある。北向きの斜面に約80戸が集まり、民家の間を走る急坂の脇に石仏がたたずむのどかなところだ。棄老伝説の地といえば、姥捨山がある信州と思いがち。だが、「楢山節考」は甲州の大黒坂がモデルである。
小説では、村には70歳になる年寄りが山へ死に赴く「楢山まいり」の習わしがある。気丈なおりんは家族のため、一日も早く山へ行きたいと願う。心優しい孝行息子の辰平は親を捨てるのが嫌で先延ばしにしようとするが、おりんの強い意志と村の慣習にはあらがえず、おりんを背板に乗せて山へ向かう。
まず断っておかねばならないのは、大黒坂に姥捨ての慣習があったわけではないということ。深沢のエッセー「楢山節考・舞台再訪」によると、温泉で有名な笛吹市石和町出身の深沢は終戦当時、大黒坂にあるいとこの嫁ぎ先へ遊びに行った。そして何日か滞在するうち集落の人たちのことが好きになり「この土地の純粋な人情から想像して、あの小説はできた」のだという。
生まれも育ちも大黒坂という旧境川村(2004年に笛吹市に合併)の村長だった角田義一(つのだ・よしたか)さん(85)は当時のことを覚えている。深沢は心臓が良くなかったようで、ぞうりを履いてゆっくり歩く姿を見て「変わったおっちゃん」と思ったそうだ(実際、深沢は心筋症で後に長期療養している)。また、いとこの嫁ぎ先の娘と同級生だったため、その家の親戚から、よく深沢の話を聞かされたという。
それによると、深沢は大黒坂滞在中、親戚の案内で周辺の山や沢を歩き回った。その行き先の一つに「早桶沢(はやおけざわ)」が出てくる。早桶とは「粗末な棺桶」の意味だ。大黒坂の人たちは豊かではないが、何でも分け合う家族のようなところがある。そんな「原始の味のある」(楢山節考・舞台再訪)人情に加え、早桶沢など地名にも見える風土に何らかのインスピレーションを受けて「楢山節考」を着想したのではないか――。これが角田さんの見方である。
集落の急坂を上った奥部に、旧境川村が91年に建てた「楢山節考」の顕彰碑がある。表には深沢が作詞作曲した「楢山節」の歌詞を刻み、裏には「舞台再訪」の一部を引用した。
集落の外れにひっそりと建つ「楢山節考」の顕彰碑=山梨県笛吹市で2023年10月23日、山本直撮影
建立の際、地元の人たちの間には「貧乏で姥捨ての風習があると描かれたのに顕彰碑なんて」と反対の声もあった。それを村側が「こんなに深い親子愛を描いた素晴らしい小説は他にない」と説得したのだという。確かにこの作品に一貫して流れているのは棄老の薄情さではなく、親子の情愛だ。
山梨県は以前、歴史をたどる散策コースの整備に精を出し、大黒坂も「楢山節考」の舞台として、その一つに挙がっていたらしい。だが、名残は顕彰碑のほか、聖応寺(しょうおうじ)という立派な寺の門前にある古びた「散策コース」の木製案内板ぐらいしか見当たらなかった。
寺の前に古びた案内板があった=山梨県笛吹市で2023年10月30日、山本直撮影
それでも笛吹市観光商工課によると「聖地巡礼」に訪れる人は少なくないようだ。山梨県立文学館(甲府市)によると、石和温泉には深沢の親戚が生家跡で営むそば屋や、旧家の跡に建つ温泉宿が現存する。
今村監督の映画は83年のカンヌ国際映画祭でパルムドール(最高賞)に輝いた。ただし、原作は本作と、こちらも深沢が貧農の次男以下の悲惨な境遇を描いた「東北の神武(ずんむ)たち」の2作品で、小説「楢山節考」のストーリーはかなり脚色されている。【山本直】