網野善彦「古文書返却の旅」 石川・輪島市 - 日本経済新聞


能登地震で色々と読書した事で想い出した事がある。

百姓=農民 ではない。 水呑み=貧乏 ではない。

民俗学から多くの事が分かったのである。

宮本
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戦後間もない1949年、全国の農漁村に眠る古文書を収集し、本格的な社会史資料館の建設を目指す国の事業が始まった。調査員に雇われ古文書の筆写や目録作りなどの実務を担ったのは、若き日の宮本常一や網野善彦ら気鋭の歴史・民俗学徒だった。
江戸初期に2つに分かれた時国家。通称・上時国家には「襖下張り文書」などが保管されていた=写真 嵐田啓明

だが、計画は財政難で頓挫。関係者は失業し、就職先を求めて四散した。所有者から「半年から1年」の約束で借りたまま返却されない古文書の山が30年余り放置された。

網野は80年に名古屋大学を辞し、不義理の責めをひとり背負って古文書返却の旅に出る。本書はその道中記だ。

対馬、紀伊半島、瀬戸内海、佐渡……。叱責覚悟の気重な旅だったが、思いがけず各地で歓待される。網野の誠実な振る舞いが、古文書の所有者の琴線に触れたのだ。

この旅は、後に「網野史学」と呼ばれる学問上の知見も授けてくれた。圧巻は84年8月、石川県輪島市の旧家、時国(ときくに)家を訪ねる場面だ。

時国家は、壇ノ浦の戦いに敗れ能登半島に配流された平家の末裔(まつえい)。国の重要文化財の古民家に網野を迎えた時国家24代当主夫人、時国綾子さん(89)が当時を振り返る。

「文書を借りに来たのは宮本常一さん。夫は手紙で返却を促したが戻らぬまま亡くなった」。網野の訪問は亡夫の一周忌と重なった。「夫の魂が網野先生を呼び寄せてくれたような気がしました」

文書返却を喜んだ綾子さんは、蔵に埋もれていた別の古文書約2万点の調査を依頼した。網野は厚意に感激し、足かけ10年を費やし膨大な史料を読み解く。その過程で、「百姓=農民」という通説が誤りであることを確信する。

時国家の17世紀前半の文書に領内の「水呑(みずのみ)」が大船を所有し日本海の廻船(かいせん)交易で巨利を得ていた記述を発見した。水呑は土地を持たない百姓で貧農と理解されてきた。が、彼らは裕福な商人であることが判明。小作を束ねる豪農とみられてきた時国家は海運、鉱山、塩田、金融業を営む「百姓=多角的企業」だった。

「非農業民」を視座に東アジア史の再構築を構想した網野は、時国家の調査を機に思索を深化させていった。

網野は古里・山梨の地に眠る。が、遺族によると時国家に近い景勝地、曽々木の海に一部を散骨したという。本人のたっての願いだった。

(社会部 和歌山章彦)

あみの・よしひこ(1928〜2004) 山梨県生まれ。日本中世史が専門。東京大学卒業後、渋沢敬三が設立した「日本常民文化研究所」に所属し、同研究所が受託した国の古文書収集事業に携わる。都立高校教諭を経て、名古屋大学、神奈川大学で教えた。

近世まで日本は農業社会だったという通説を疑問視。芸能民や被差別民、悪党など非農業民と権力の関係を考察した「蒙古襲来」「無縁・公界・楽」「異形の王権」などの著作は、学界だけでなく文学や映画など芸術の領域にも影響を与えた。おいにあたる宗教学者、中沢新一さんの著書「僕の叔父さん 網野善彦」は網野の人と学問の魅力を余すところなく伝える。

(作品の引用は中公新書)