当事者から共事者へ(1) 障害と共事|小松理虔 - webゲンロン|考えるを育てる
無知な私は最近まで「共事者」という言葉を知らなかった。
昨今の冷笑主義や「ひろゆき問題」などは当事者でも共事者でもない、安全な場所に居座って勝手に
主張しているだけなのだと分かった。
自分は原発震災の被害者ではないが、現場を訪問してその悲惨さが分かり、さらに、高木仁三郎さんや小出先生の著作に3.11以降に読ませていただき、自分の無教養さを痛感して、反原発の立場になった。
また、釣り人として、多くの河川がダムや堰堤、護岸工事で壊されていく現場を見て釣り人としての当事者とその無駄な公共事業に対する憤りを感じて、ダムや無駄な公共事業反対の立場になった。
もちろん、戦争も同じ、悲惨な戦争や内線現場(ラバウル他)を見て、非戦の立場を取っている。
当事者の気持ちや状況に寄り添い、共事者として生きる事が爺に出来るわずかな事である。