山は博物館:南アルプス赤石岳 一代で財閥、大倉喜八郎の「大名登山」 | 毎日新聞





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現在の大成建設やサッポロビール、日清オイリオ、帝国ホテルなどを創業し、一代で大倉財閥を築いた頭取、大倉喜八郎氏(1837〜1928年)は1926年8月、南アルプスの赤石岳(3121メートル)に登った。「(数え年)90歳の壮挙」と、200人と言われる配下を従えた「大名登山」が話題に。自分はかごで担がれ、「金に任せて」風呂おけも運んだなど破天荒な話だらけだ。
「目の黒いうちに…」願い応え200人随行

 赤石岳は水力発電やパルプ製造のため、大倉氏が買収した静岡県の「井川山林」(東西13キロ、南北32キロ)の代表的な山。「目の黒いうちに見ておきたい」と考えた。大倉氏が創設した東京経済大の村上勝彦元学長(79)=日本経済史=は「年を取っても元気で、人を驚かせることが好きだった。新聞記者を多数連れて行き、自分を宣伝させるつもりもあっただろう」と推測する。

 東京日日新聞(現毎日新聞)は見出しで「仰々しいこと大倉翁/大祭り騒ぎの山登り」と報道。「準備を引受けた(財閥傘下で地元の)東海紙料は御大の御機嫌を損じてはと、常務以下連日連夜総動員で、(事前の)山の検分、道路の修繕、人集めのため八方に飛ぶ」と書き立てた。「東海パルプ」(旧東海紙料、現新東海製紙)の社史などによると、出発地の静岡駅から赤石岳まで距離は70キロ以上。現在も登山口の椹島(さわらじま)まで、さかのぼる大井川沿いの道を事前に整備。椹島から山頂までの本格的山道は1カ月前から延べ2000人以上が道を切り開いたという。


 登山には東海紙料の幹部十数人が付き添い、大倉氏の身の回りの世話係、荷物運搬係らが行列を作った。畳や布団、寝台、机、酒だる、ビール、シャンパンも運んだ。道中、豆腐を作ったとの話もある。往復で一行が使った草履は実に7000足という。

 大倉氏が東京駅から静岡駅に着くと、地元警察署長らがにぎやかにお出迎え。名士の家や役場に泊まりながら椹島まで4日間、通過する集落では人垣ができ、花火や爆竹、ブラスバンドで大歓迎。若い女性が接待に努めた。
かごの中でお酒チビリ、風呂おけも運ぶ

 行程には断崖伝いの危険な場所が何カ所もあった。東京日日新聞によると、最長120メートルの不安定なつり橋も十数カ所あり、風であおられて揺れないよう板敷きの幅は約20センチ。橋が高いほど風が強いので板は狭く、両脇は針金1本張ってあるだけ。誰でも怖がるが、かごに乗る大倉氏は「馴(な)れて肝も潰れぬと見えて数十丈(1丈約3メートル)下の大井川を見下ろし案外平気」だった。休憩中、記者が「一同で大倉男爵閣下万歳と乾杯すれば『サンキューベルマッチ』とうれしがる千万長者も他愛ない」。「窮屈な山かごに乗り通しでも、徳利をブラ下げてチビリチビリとやっている。『御疲れになりませんか』と尋ねると『いい気持ちでごわすなあ』と洒々(しゃしゃ)としている」

 椹島に着き、悪天候で1日休養。6日目に本格登山を開始した。ここから朝夕入る風呂おけと、水1斗(18リットル)入り20個、2斗入り10個が荷物に加わった。この夜は、2564メートルの三角点近くに建てた小屋に宿泊。当時始まって間もないラジオ放送を楽しんだことも報道のネタになった。

 7日目、山頂近くで道が険しくなると、かごから山男のしょいこに乗り移り、ついに登頂。風呂に入り、羽織、はかま、白足袋の正装に着替えた。国旗を揚げ、君が代を斉唱。「天皇皇后両陛下万歳」と叫び、花火も打ち上げた。この時の情景を東京日日新聞は「人々の心配も何のその。(高級織物の)仙台平(せんだいひら)で威儀を正した。(万歳の)声の大きいことったら」と伝えた。登山の記録映像は東京経済大に残っている。