“わだつみのこえ”常設展始まる|NHK 山梨県のニュース
故中村克郎先生の想いを聞いた者として永遠の戦争放棄を願っています。
以下記事
太平洋戦争で戦死した学生たちの手記などを集めた「きけわだつみのこえ」に収められている中村徳郎さんの日記などの常設展示が出身の甲州市で始まりました。
甲州市出身の中村徳郎さんは、東京大学在学中に学徒出陣して25歳のときにフィリピンで戦死し、中村さんが隠れて弟に渡した日記や家族への手紙は「きけわだつみのこえ」に収められています。
甲州市は去年3月、中村さんの日記や手紙など47点を市の文化財に指定し、戦争の恐ろしさを改めて知ってもらおうと、戦後75年にあわせて13日、甲州市中央公民館に常設展をオープンしました。
このうち、出征が決まった中村さんが昭和19年に家族に宛てた最後の手紙は「運命の皮肉からこういうことになりました」とつづられ、戦争の不条理さを感じられる資料です。
また、最後の面会で弟に手渡した手記は、生きたいと願いながらも戦争に赴かなければならない無念さなどが書かれています。
甲州市教育委員会の保坂一仁教育長は「戦争を経験した人が少なくなるなか、資料を通じて平和の尊さや中村さんの気高い魂を知ってほしい」と話していました。
常設展は甲州市中央公民館で月曜日を除く午前9時から午後5時まで無料で観覧できます。
きけわだつみのこえ より
中村徳郎 大正7年(1918)生まれ 昭和17年10月 東京帝国大学理学部地理学科入学 同月 千葉県習志野にて入営 大学の講義を一度も受けることなく戦場へ
昭和19年6月5日
父上、母上に。
長い間あらゆる苦難と戦って私をこれまでに育んで下さった御恩はいつまでも忘れません。しかも私は何も恩返しをしませんでした。数々の不幸を御赦し下さい。思えば思うほど慙愧に堪えません。
南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、できればトルキスタンの砂漠の中に埋もれて私の生涯を閉じたかったと思います。残念ですが運命の神は私に幸いしませんでした。
総ては悲劇でした。しかし芥川も言っているように、親子となった時に既に人生の悲劇が始まったのだということは、いみじくも本当だと思いました。気の毒なお父さんお母さんに恵みあれかし。
中村徳郎
昭和19年6月20日午前8時
父上母上様。弟へ。
門司市大里御幸町 辰美旅館 徳郎
何もかも突然で、しかも一切がほんの些細な運命の皮肉からこういうことになりました。しかし別に驚いておりません。克郎(弟)に一時間なりとも会うことが出来たのはせめてもでした。実際は既にその前日にいなくなっているはずでした。そうしたら誰にも会えなかったのです。
中略
最も伴侶にしたかった本を手元に持っていなかったのは残念ですが致し方ありません。それでも幾冊かを携えてきました。
中略
今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格をもった「人間」が、その意思も意志も行為も一切が無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもかわらない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくないと思います。
ともかく早く教室へ還って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。こうやっていると、じりじりと刻みに奪われてゆく青春を限りなく惜しい気がしてなりません。自分がこれからしようとしていた仕事は、日本人の中にはもちろんやろうという者が一人もいないと言ってよいくらいの仕事なのです。しかも条件に恵まれている点において世界中にもうざらにないくらいじゃないかと思っています。自分はもちろん日本の国威を輝かすのが目的でやるのではありませんけれども、しかしその結果として、戦いに勝って島を占領したり、都市を占領したりするよりもどれほど眞に国威を輝かすことになるか計りしれないものがあることを信じています。
自分をこう進ましめたのは、いうまでもなく辻村先生の存在が与って力ありますが、モリス氏の存在を除くことが出来ません。氏は自分に、真に人間たるものが、人類たるものが何を為すべきかということを教えてくれました。また学問たるものの何者たるかを教えてくれたような気がします。私はある夜、西蔵(チベット)の壁画を掛けた一室で、西蔵の銀の匙で紅茶をかきまわしながら、氏が私に語った"Devote yourself to Science."という言葉を忘れることが出来ません。