コロナパンデミックで学校閉鎖
先生も生徒も大変な様だ。特に小さいお子さんは大変だろうと思う。

でも、中高生は(小学生の高学年も?)は自分でなんとかなるんじゃね?
富裕層の連中はタブレット持って、塾のオンライン授業を聴講しているかもしれないけど。
そして公営の図書館も閉館かもしれないけど、もしアルバイトの必要がないのなら
自宅で静かに勉強して欲しい、親がDV(よくあるらしい)なら、昼間は人混みの無い河原や
山で虫よけして勉強するのも良いのではないか。

確かに養老先生は教育には強制が伴う事もあると指摘はしていましたがね。
自分の好きな事をやり続ける事が大切だと思うよ。
もちろんそれは学校の教科書だけでなく、芸術や技術でも良いわけだし。
いくら勉強出来ても、今の官僚みていればなりたい連中も減るだろうしね。


別に自慢じゃないけど、貧乏な我が家は塾や予備校になんか行けるカネなどあるはずもなく
自分でバイトして稼ぐが、国立大学で奨学金で生活するかしかなかった訳だ。

そんな昭和50年から52年の高校3年間1975-1978の自助努力の話(もちろん親のおかげだけどね)

2005年ログ 大学受験ラジオ講座

子供3人の教育費がばかになりません(笑)
夏期講習で一人20万近く。。。。

ふと自分の事を思い出した。
私の先生は旺文社のラジオ講座でした。田島先生、西尾先生等の有名教授。
かならず受験の前になると一高の寮歌?やボート部の歌を歌われた記憶が
あります。おいらはそれを高校1年から聞いておりました。だから
3回も寮歌を聴いたかな。
一月500円のテキストを本屋で買って、ラジオをテープに録音。
教え方が上手いんですよね。きっと今の塾の先生もこんな感じなんでしょう。
英、数、国がメインだったと思います。国語は超苦手だったので
オリオンと言う通信添削をしてました。ここは先生を指名出来て、ずっと
同じ先生が添削してくれました。このおかげで点数が大分上がりました。
甲府盆地は夏は死にそうに暑く、当時当然クーラーなど買える状況になく
いつも勉強は県立図書館でした。夏休みは開館から閉館まで。
そして、わら半紙とボールペン(ボールペンの芯を大量に買っておきました)で書きまくり(記憶力悪いので)。そんな青春だったな〜〜 その2に続く

最近東大に合格するのは中流以上の家庭の子弟らしい。
どの辺が中流なのか分からないが、いわゆる塾に行って受験技術を
身に付けていないと駄目なのだろうか。
いっその事、欧米のように入学は簡単、卒業は難関とした方が
単なる記憶と技術優先の日本式入学システムを駆逐してくれると
思うのだが、、、
この4月より国立大学は独法化したので、すこしづつは変わって
行くことを期待したいですね。
おいらの場合、さんざん、わら半紙とボールペン学習法で記憶した事は
ものの見事に忘却の彼方ですから。。。
それに引き換え、我が家のおぼっちゃまは、どうみても勉強しているようには
見えないのだけれど、おいらの高校時代より何倍も出来るし、きっと
集中力と(これもおいらは自信があったが。。。。)塾とのコラボの
なせる技なのか。
なんとか国立大学に行ってもらいたいものだ。ちなみにおいらは
山陰の地方大学でした。トホホ 夢は北大獣医だったんだけど。。。。
その3につづく。。。

高校生活と言えば学園祭なのである。

もちろんクラブ活動もあるのですが、おいらの場合、中学時代はバスケットをやっておりました。なんでお前みたいなチビが言わないで下さい。
そして高校の合格発表が終わるや否や、高校のバスケ練習に友人と参加しておりました。
もちろん入学式前ですよ。そんな訳で1学期の中間試験を迎えました。当然出来ません。
問題は数学です。これまで5段階評価で2など言う数字は貰った事がなかったんです。
これには参りました。だって獣医は理系なんです。だから絶対数学1と2は必要なんです。
そんな事があり、夏休み前に顧問の先生に退部願いを出しました。それから結構必死に勉強して期末試験は後10点あれば評価5と言う所まで行きました。
そうすると又ですよ、遊び心がうずきだす、さらに進研模試で北大獣医確実なんて評価をもらったもんですから。。。。
学校サボってバイクの免許を取りに行き(誕生日があと3ヶ月早かったら教習所5時間実地で大型免許なのに、おいらは8時間実地で中型免許、大学でやっと限定解除)、125ccの中古のバイクを買い、乗り回しておりました。
そんな事をしていると当然成績はまた落ちる訳で、2年に上がる際は、理系できないクラス、3年の時は今度こそできるクラスだと思ったらやはり理系できない男クラスでした(笑)(ちなみにその男クラスの進学率が一番よかったのだ)

やっと学園祭の話になったな。
うちの高校はファイヤーストームと言う最後のイベントが盛り上がるんです。最終日の日が暮れると校庭の真ん中に高く詰まれた丸太や学園祭でつかった木っ端なんかが投げ込まれ盛大な焚き火となり、応援団主導で応援歌の大合唱です。
当然、3年ですから、最後の学園祭を盛り上がろうと、いろんな催しを考えたり(模擬店で売る、マスコットを夜遅くまで男だけで縫ったり、寸劇の稽古したり、女装したり)もう大変です。
それらイベントも終わり、あとはファイヤーストームを待つばかりです。
ところがです、バカセンコウ(今でも名前を覚えている)がまだ日が出ているのに火をつけやがった。それに応援団も抵抗しない。そして応援歌を歌いだした。
おいら達は、文句を言う間もなく突然の出来事に真っ白状態。
仲間とまさに号泣。
確か夜の8時頃に予約してあった小料理屋の2階も泣きながらキャンセル(これについては、かなり担当から探りが入っていたようで、おいらの家にも電話がかかって来たそうだ)
校門で男組連中が泣いているのを見て、我が担任が、どうしたのか聞いて来る。もうすべてが終わってしまった事、打ち上げも中止した事を泣きじゃくりながら話した。
そうしたら、担任「俺も行く」(この担任もこの高校出身)
キャンセルを取り消し、担任を含めて残った生徒で宴会場へ。(残念な事に一度キャンセルしたので、一部の仲間は既に帰ってしまい連絡がつかなかった)
何を語ったのかは忘れてしまった。でも、その時担任は懲戒免職を覚悟していたであろう。
今でも思う、すげえ先生だと。ちなみに2019年に自宅をはじめて訪問しました。

当時はよく飲んでは吐いていたけど、この宴会と新年会で、付き合っている彼女の和服姿の膝枕は今でも皆から顰蹙らしい。
金は無かったけど、精一杯生きていたんだと思う今日この頃。

わが子達も夢を追い続けて欲しい、そして涙する事もあるだろう、でもきっとそれ以上の経験が得られるだろう。

その4につづく?

番外編

10年以上ぶりに24時間テレビを見た。
丸山弁護士の100kmマラソン。

僕の行っていた高校でも、105km強行遠足と言うのがある。
甲府から小諸まで制限時間23時間ちょっとだったと思う。
1年生の時は95kmで挫折。2年と3年は完走(完歩)。
ちょうど夜中に野辺山のあたりを通過するのだが、まさに星が降っている。
その星をプレゼントにするねと彼女に誓い、ひたすら走るそして歩く。
多くの女の子がお守りを作り彼氏やクラスの男の子に渡す。

また、野辺山で星を拾いたくなった。
その星をカミサンや子供達に見せてあげたいと思った。

ネットから拾い物 こんな本でしたね。
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