口癖は「飽くなき挑戦」 ロータリーエンジンの父死去:朝日新聞デジタル


高校時代からバイクに乗り、大学に入ってもCB250, XS-650Sと乗り継いだ。
そして、先輩から譲りうけたボロボロのコロナや1万円で購入したホンダライフを20万以上かけて
リストアしたりしていた。
そして、フェアレディかサバンナが欲しいと思う。
当時中古でRX-7が80万だったかな。Zはバイト先のスナックに来る車屋さんの偉い人が、良い車があり、2年乗っても同じ値段で売れるよと言っていた。

でもやっぱりRX-7が欲しくて、森ドクターに保証人になってもらいローンを組んでRX-7.
その後、東京の大学院にすすみ、結婚し長男が生まれた。
次男が生まれる頃にさすがにRX-7では狭いと感じ。いすゞ自動車のアスカを中古で購入した。

大学時代、本当に良くバイトした。当時一番稼いだ月は20万位だっただろうか。
主に飲み屋さん、新しく開店するスナックのお手伝いやら、世論調査なんかもしたね。
11PMの三朝温泉のロケ手伝いとか。

そんなローターリーエンジンの話でした。


以下記事

東洋工業(現マツダ)がロータリーエンジン(RE)の量産を始めて50年の節目にあたる年に「REの父」と呼ばれた山本健一さんが亡くなった。

1960年代、実用化が難しく、「夢のエンジン」と言われたREに取り組むことになったのは、独自のエンジンを持ち、特色あるメーカーとして生き残るためだった。その重責を担う開発責任者に選ばれた。当時、国内の自動車市場の開放を求める海外からの圧力が高まり、国が業界再編を主導するとささやかれ始めていた。

 REの開発を始めたときの「演説」は、今なお当時の部下たちの語りぐさになっている。大半が20代半ばの総勢47人を前に呼びかけた。「我々四十七士はロータリーエンジンが完成するまで……」と赤穂浪士になぞらえ、不可能とも言われた開発に向け、奮い立たせた。

 ログイン前の続き現場では若手でも部外者でも分け隔てなく話を聞き、「飽くなき挑戦」を掲げて開発を率いた。REの実用化には、世界中のメーカーが挑んだが、量産し続けたのはマツダだけだ。技術力の高さと、挑戦し続けるシンボルになった。

 業績不振でフォード傘下に入り、RE開発に赤信号がともった際には、部下たちが水面下で開発を続け、新型「RX―8」を完成させた。

 山本さんはもともと、飛行機の設計を夢見たエンジニアで、戦時中は特攻機を造っていた。戦後、夢を絶たれ、家族が住む広島に移った。東洋工業には工員として入り、トラックの変速機の組み立てから始めた。

 「大きな夢を持ちなさい」。不可能とも言われたREの成功の秘訣(ひけつ)をそう語り、今年5月に伺った際にも新型REへの期待に目を輝かせていた。(神沢和敬)

マツダのウエッブ



寮の窓より、そしておそらく千葉での一枚。

RX-7