十六 身交う、とは…… | 随筆 小林秀雄 | 池田雅延 | Webでも考える人 | 新潮社


小林秀雄さん担当だった池田さんが書かれている。良い文章だなと思う。

文章に出てくる講演CDは2011年に聞いたのだけど、まだ身についていないようだ。

文章の後半部分を備忘録として

現代の学問は、科学的観点というものを競いあっているように見える。しかし、科学の分野でも、優れた発明をした人、発見をした人は、観点などというものにとらわれず、みな長い時間をかけて、対象を本当の意味で考えてきた、自分の実験している対象、観察している対象と、深く親身につきあい交わってきた、科学的真理もそれを本当に知るためには、浅薄な観察では駄目である……、小林秀雄は、そうも言っている。日頃、科学畑の本や雑誌を手にとることはほとんどないと言っていい私だが、そうか、優れた科学者は、自然というものと身交っているのかと、頭では即座に理解できた。
 それが一昨年、化学者の大村智さんがノーベル生理学・医学賞に決まり、大村さんの研究歴がテレビで詳しく報じられるのを見て、なるほど、これが科学者の身交うということなのだと合点した。大村さんは、学会であれゴルフであれ、行く先々でその土地の土をわずかずつだが掬い取って持ち帰る、そして研究室で土の中の微生物が産みだす天然有機化合物に神経を集中する。この、土の蒐集と観察は四十五年余りにもなり、こうしていままでまったく知られていなかった四八〇種以上の新規化合物を発見、これによって感染症などの予防、さらには撲滅、そして生命現象の解明に大きく貢献したのだという。大村さんが、土の中の微生物のことを、まるで人間の子どもに目を細めるかのように話し、微生物にいくつもいくつもいろんなことを教えてもらっていると語るのを聞いて、まさにこれが「身交う」ということだと思ったのである。

 だが、いまはもう、大村さんのような科学者は、減っていくいっぽうであるらしい。ある観点を設えて、ある方法に従って、ある方向に対象を解釈する、それがいまの学問であり、そこで言われる「考える」は、一定の観点をセットし、一定の方法を編み出し、一定の解釈を誇示する、そういう一連の行為である。「考える」という言葉が、日々そういう意味合いで飛び交っている大学に身を置いていれば、九州の合宿教室で、信ずることと考えることはずいぶん違うのではないかと訊いてきた学生の言もよくわかる。しかし、小林秀雄に「考える」は「身交う」だ、親身に交わることだと言われてみれば、なるほど、考えることは信じることと近い。信じることがまずなければ、親身に交わることはできない、家族、学校、職場などの人づきあいを通じて、私たちはよく知っているのである。

 ではいったい、いつから「考える」は、ある観点をセットして、ある方法に従って、ある方向に解釈する、そういうことになってしまったのか。小林秀雄は、同じ学生の質問に答えていくなかで、こう言っている。十七世紀フランスの思想家パスカルに、「人間は考える葦である」という有名な言葉があるが、
 ――「考える葦」というパスカルの言葉について、僕は書いたことがあります。パスカルは、人間はいろいろなことを考えるけれども、何を考えたところで葦のごとく弱いものなのだと言いたかったわけではない。人間は弱いものだけれども、考えることができる、と言いたいわけでもない。そうではなくて、人間は葦のようなものだという分際を忘れて、物を考えてはいけないというのが、おそらくパスカルの言葉の真意ではないかと僕は書いたのです。……。
 この言葉は、さらに続く。
――物事を抽象的に考える時、その人は人間であることをやめているのです。自分の感情をやめて、抽象的な考えにすり替えられています。けれど、人間が人間の分際を守って、誰かについて考える時は、その人と交わっています。……
 そしてこの後、ここではすでに述べた「子を見ること親に如かず……」が、物事を抽象的に考えることの対極として語られるのだが、こういうふうに読んでみると、ある観点をセットして、ある方法に従って、ある方向に対象を解釈するという現代学問の「考える」は、まさに人間は葦のようなものだという分際を忘れているということだろう。
 パスカルの「考える葦」について、僕は書いたことがあります、と言っているが、それは昭和十六年の七月、八月、三十九歳の夏に書いた「パスカルの『パンセ』について」(新潮社刊「小林秀雄全作品」第14集所収)をさしている。もうその頃から、小林秀雄は学者や文化人の、人間の分際を超えた物の考え方や物の言い方に対して腹をすえかねていたのである。
 次回はそこを読んでいこうと思う。人間が、というよりこの私が、いつのまにやら人間の分際を超えてものを考えるようになっていて、ということは、物事を抽象的に考えるようになっていて、もはや人間であることをやめてしまっているとする、にもかかわらずそのことに気づかず、思慮分別十分ありげに振舞っているとしたらお笑い種であろう、人生がとっくに空洞になっているのに、それを知らない裸の王様だからである。