さようなら藤田祐幸さん : 小坂正則の個人ブログ
以下ブログより
藤田祐幸さんが7月18日にお亡くなりになりました。藤田祐幸さんと言ってもご存じでない方は知らないでしょうが、チェルノブイリ原発事故以後大分で反原発運動に関わってきた、私たちチェルノブイリ世代の者で知らない方はいないでしょう。これまで広瀬隆さんと一緒に、単独で九州を大分を何度来て、講演をして頂いたことでしょうか。
実は、今年3月に長崎の西海市に住んでいる藤田さんにお電話しました。「大分で伊方原発仮処分の裁判をやりたいんですが、藤田さん協力してもらえませんか」と。すると、「僕はだいぶ弱っているから、協力できることはあまりないかもしれないけどね。私はこれまで、原発裁判だけはやりたくなかったが、高浜の仮処分で考え方を変えなければならないと思っているよ。頑張ってやってくれ」と言った会話をしました。その後、6月の中旬に「広瀬隆さんを大分と熊本に呼んで講演をします」と、電話したら、藤田さんは「広瀬さんが来るのか。俺も会いたいから大分か熊本のどこかで合流しよう」と、元気そうに電話口で話していました。
私は久しぶりの元気な声に「先生だいぶお元気になりましたねえ」と、言ったくらいです。その後7月に入って、電話するとすっかり元気がないので、私は無理を言って「先生、広瀬さんと一緒に病院に見舞いに行っていいですか」と尋ねたら「ああ、いいよ」と、弱々しく承諾してくれました。そして7月18日に久留米市の病院の前まで行って、広瀬さんに電話をしてもらったのです。すると藤田さんではなく娘さんが携帯に出て「父はいま実家に帰っています。意識がなくなったり戻ったりしているんです。今は意識がありますから電話に出れるか聞いてみますね」と。すると藤田さんは、「ああっ」というような大きな声を出したそうです。それが広瀬さんと藤田さんの最後の会話でした。親友の広瀬隆さんからの電話にきっと喜んで声を振り絞って出したでしょう。藤田さんとは同じ年の広瀬さんは「電話してよかった」と言っていましたが、随分落ち込んでいるようでした。
藤田祐幸さんの意志は私たちが必ず受け継ぐ
18日の夜遅く亡くなりましたと、娘さんからお電話を頂きました。そして、20日の葬儀に私は北九州の深江守さんと一緒に長崎の西海市であった葬儀に参列しました。
娘さんの葬儀での挨拶で「父は反原発運動に人生のほとんど全てを捧げました。亡くなる前々日に意識がしっかりしている父に、私はこう聞きました。あなたの人生はどんな人生でしたか。何か思い残すことはありませんかと。すると父は『人生波瀾万丈。一点の悔いもなし』としっかりとした声で答えました」と。
文字どうり藤田さんは人生のほとんど全てを反原発運動に捧げて来たのです。「私は藤田さんのように言って死ねるかなあ」と、思ったら涙があふれ出してきました。藤田さんが亡くなるのは寂しいし、悲しいけど、彼は自分の人生に何の悔いもなく、真っ正面に生きてきたんだからそれでいいんだと。さて、「お前はこれから残り僅かな人生をどう生きるんだ?」と自分に問いかけてみました……。葬儀の前、自宅に伺って棺の中に小さく横たわっている藤田さんを見せてもらったら、いつものやさしい顔で、まるでぐっすり眠っているようで、今にも起きてきそうでした。(合掌)
藤田さんのお別れ会を予定しています
実は、私に取って、藤田祐幸さんはもう一つの関係があるのです。10年くらい前の話です。藤田さんが慶応大学を退官する時に膨大な資料をどうするかで悩んでいたのです。ご自宅に必要な資料は持って帰るけど、「自宅には入らないほどの資料を誰か引き取ってはもらえないか」という話を九州の仲間にしたそうです。すると、「小坂の自宅は随分広そうだから小坂に預けたらいいのでは」という話になって、藤田さんから「小坂君、君に資料を預けるから引き取ってくれ」となったのです。私はちょうどその頃、松下竜一資料館を造る準備をしていたので、「先生、それは願ってもないことです。私に預けさせてください」と、お願いしました。と言うわけで、私の家にある「松明楼」の棚の一部に「藤田祐幸文庫」があるのです。70年代から80年代の市民運動関係のミニコミ誌と月刊誌などです。
そんな藤田さんとのいろんな思い出を持っている私たち九州の反原発運動の仲間内で「藤田祐幸さんお別れ会」を企画しようと言う話が持ち上がっています。どこで開催するかが問題ですが、各県それぞれに藤田さんとの関わりや足跡があるでしょう。大分でもぜひ藤田さんを偲ぶ会を開きたいし、「藤田文庫」のお披露目もしたいと願っているのですが、まだまだ大分は来年の仮処分決定までは裁判最優先でなければなりません。
東京では9月21日(木)デイズジャパン主催で「藤田祐幸さんを偲ぶ会」が開催されます。詳しくは03-3322-4150までお問い合わせください。