連載〈企業研究〉JR東海 - 三万人のための総合情報誌『選択』
2010年2月号
連載〈企業研究〉JR東海時代逆行の「リニア優先経営」
葛西敬之会長率いるJR東海といえば、「夢のリニア中央新幹線」である。同社は二〇〇七年、中央新幹線の首都圏―中部圏約二百九十キロについて、総事業費約五・一兆円を全額自己負担で建設し、二五年の開業を目指すとぶち上げ世間を驚かせた。これを機に、財源がネックになっていたJR東海のリニア新幹線構想が再び動き出した。先日には米国への技術輸出も行うとまで言い出している。
だが、この三年ほどの間に取り巻く情勢も市民の意識も、様変わりしてきた。とりわけ国鉄や郵政の民営化を手放しで賞賛した時代は過去となった。リニアを見る社会の目はシビアになっている。例えば十二月八日の山梨県議会一般質問では、有力自民党県議がリニアの「プラス面と同時に、電磁波の影響や駅の建設費負担などのマイナス面も同じ土俵に上げなければ、子や孫の時代に『なぜこんなものを造ったんだ』と言われる」「これからはむしろスローライフを求める時代に移行していく」などと疑問を投げかけている。
着々と進む早期着工へのステップ
リニア新幹線構想は、過去十年ほどは鉄道ファンの話題としては盛り上がっても、実際の建設云々となると、JR東海のリニアキャンペーンにもかかわらず、「財政難の日本ではとうてい無理。リニア技術は海外に輸出した方がよい」とする捉え方がつい最近まで、国土交通省内でも主流だった。
既に建設が決まっている整備新幹線の未着工区間の財源でさえ、与党だった自民党や国交省が四苦八苦して集めており、自民党の鉄道族は「整備新幹線を全部完成させるまでは、中央新幹線にはリニアであれ車輪(方式)であれ、ビタ一文たりとも予算をつけさせない」と息まく状況だった。
この閉塞状況を一気に変えてリニア中央新幹線を「早期着工」という軌道に乗せるための「切り札」として切られたのが、JR東海による自己負担建設方式だ。同社の幹部は「建設費を自己負担すれば計画を前に進められると判断した」と公言している。
なお、中央新幹線自体はJR東海ともリニアとも関係なく、独立した国家プロジェクトとして全国新幹線鉄道整備法(全幹法)の「基本計画」という形で一九七三年に決定されている。その国プロとして決定済みの中央新幹線を一民間企業であるJR東海が、勝手に東海道新幹線のバイパスと位置付けたり、リニア方式で建設し自社の一元管理下に置くなどというプランを発表したりすること自体が越権行為である、という意見もある。このためかJR東海も、全幹法の適用による国プロとしての認可を求めている。
国土交通省は中央新幹線を「計画線」から「整備線」に格上げするのに必要な手続きとして、輸送費や建設費などについての「四項目調査」の実施をJR東海に指示していたが、同社はこの調査を昨秋終え、十二月二十四日に調査報告書を国交省に提出した。今後は、国交相の諮問機関である交通政策審議会で「リニア中央新幹線」問題が審議され、概ねJR東海の構想に沿った答申がおよそ二年後には出され、二〇一四年頃には着工という運びになるだろうとの工程表がマスコミ等で早くも報じられている。
葛西会長は一月には、既存のリニア実験線を延長し相模原―甲府付近間で先行開業を目指す方針も明らかにした。リニア中央新幹線の早期着工と既成事実化をとにかく促すというJR東海の狙いからすると、自己負担建設という切り札はかなりの効果を発揮したといえるだろう。
総建設事業費十五兆円超の試算も
しかし、JR東海の自己負担建設だから「国民負担はなし」と受け取るのは早計だろう。例えば中間駅だ。JR東海は「一県一駅」を原則に建設費は地元負担を求めている。同社の試算によると、地上駅は三百五十億円、大深度に建設される地下駅(相模原、奈良)はなんと二千二百億円になるという。地上駅が計画されている山梨県の横内正明知事は「少なくともホームの建設はJRが負担すべきだ」と反発しているし、二千二百億円という額を提示された神奈川県の松沢成文知事は「県、相模原市の財政力ではとても賄いきれない」とギブアップを表明している。
JR東海は「地元駅建設の投資額は、開発利益・利便性の向上で回収できるはず」(松本正之社長)とうそぶくが、これに同意する自治体はないだろう。リニア中間駅が利用者で大にぎわいになるとは考えにくい。例えばリニアで、相模原と長野の間の流動人口は一日に五百人以下の少人数だと、JR東海自身が長野県に提出したデータは記している。結局、開発利益等で回収できない部分は?地元住民にツケが回されるか、?国の補助を求めるか(十二月二十四日の民主党のリニア中央新幹線推進議員連盟の会合では中間駅建設費は国が負担できないかとの意見が出されている)、?中間駅を諦めるか、という選択肢しかない。
五・一兆円という建設総事業費についても、それで収まるのか疑問視する声が出ている。中央構造線博物館学芸員の河本和朗氏は次のように指摘する。
「JR東海は(南アルプスを貫く)Cルートの工事費を五兆一千億円としていますが、『中央新幹線調査報告書』ではV字谷の斜面の岩盤崩落やそれに対するトンネル出入り口の保護については全く触れられていません。トンネル掘削で生じる岩ズリの処理についても触れられていません」(サイト「ケンプラッツ」〇九年七月十四日)
リニアに限らず、大型公共工事の建設費が当初の見積もりよりも大幅に上回るのはこれまでの「常識」だ。リニア問題に詳しい伊藤洋山梨大学名誉教授は、建設費は「実際は五・一兆円の三倍以上かかるはず」と予測する。リニア新幹線の一キロ当たり建設費は百九十六億円と試算されているが、東京の首都高速でさえ同七百億円もの建設費がかかっているからだ。
仮に五・一兆円をオーバーした場合どうするのかについて、市民団体の「リニア・市民ネット」(代表・川村晃生慶応大教授)がJR東海に提出した昨年七月十五日の質問状に対するJR東海の回答は「けんもほろろだった」という。五・一兆円は早期着工を促す「呼び水」との疑いは拭い切れない。しかも鉄道工事はいったん着工したら、途中で止めるのは事実上不可能である。きちんとした「事前評価」をせずに、まず「建設ありき」で巨大公共事業をスタートさせると、将来、財政や地域、人心に巨大な打撃と荒廃をもたらすことは八ッ場ダム問題が示している。
JR東海が全幹法の適用を求めているのは、建設費が大幅に膨らんだ場合に国の支援を期待しているからだ、との見方もされている。
「第二の国鉄」化という懸念
思い返せばJR東海がリニア中央新幹線の自己負担建設を宣言できたのは、同社がいわゆる「トヨタバブル」の恩恵を受けて順調に収益を上げ、豊かな手元流動性を抱えていたからだ。しかしそのバブルも弾け、十五年後の日本経済自体が不透明な中、同社が今後も高収益を上げ続けられる保証はどこにもない。景気の低迷による東海道新幹線の輸送人員減少で、むしろ大幅な減収減益が想定される。少子化に伴う鉄道利用者そのものの減少という圧力も高まろう。
公共計画や政策評価を専門とする橋山禮治郎明星大教授は、「リニア新幹線は電力費、減価償却費、固定資産税、利息などで東京―名古屋間の開業年度に四千三百億円の維持運営コストが見込まれるが、JR東海の〇八年度の当期純利益は一千二百六十億円であり、差を埋められるか?」と危惧する。そして、仮に経営悪化した際には政府の支援は避けられず、「結局、国民の税金が投入される」と予測する。「第二の国鉄」化である。
五・一兆円の負担がJR東海の既存事業に何をもたらすかについても、事前に点検する必要があるだろう。JR東海には東京―鹿児島間の距離にほぼ相当する一千四百六十七キロの在来線がある。葛西会長は、「公益事業としてのJRは、地方の赤字の路線を、採算を理由に廃線はしない」と強調していた。しかし、実際にやろうとしていることは逆だ。
例えば〇九年十月の台風十八号の影響で一部区間の不通が続いている三重県の名松線(松阪―伊勢奥津駅、四十三・五キロ)について、JR東海は不通の家城 ―伊勢奥津間(十七・七キロ)を廃止し、バス輸送への切り替えを決定した。沿線自治体は廃止に強く反対している。これに対して鉄道アナリストの国鉄好さんは、「この程度の水害で復旧を諦めなければならないとしたらJR九州なんて全ての路線が消えてしまうだろう。ローカル線の復旧や路線維持の金すら出さないというのでは、東海道新幹線とリニアにしか興味のない会社だと言われてもしかたない」と批判する。
JR東海は、五・一兆円の建設費負担は「可能」とする数字を揃えている。しかし、常識で考えてみて「背伸びし過ぎ」ではないのか。ワンマンリーダーの功名心に駆られた「背伸び」鉄道経営が、いかに大事故などの打撃を当該企業や社会にもたらすかをJR西日本の福知山線事故は示した。上記の名松線では〇六年と〇九年の二度も無人列車が暴走する事故が発生している。幸い死傷者は出なかったが、「リニア最優先、在来線軽視」の歪みが現れたのではないかと言われても致し方ないだろう。
新幹線と地域との関係も歓迎一色ではなくなった。昨年十一月六日、リニア中央新幹線を生かした地域活性化策を話し合う「山梨県リニア活用推進懇話会」が開かれた。この席上、山梨県が算出したリニアによる経済効果に対し、鉄道や都市計画の専門家から疑問の声が相次いだ。
山梨県がまとめた「中間報告」によると、県内の産業界の生産額は百四十六億円増加するとされた。しかし多くの委員から、「リニアの光の部分だけを照らしたものではないのか」との意見が続出した。淑徳大学の廻洋子教授(観光政策)は「都心との距離が近くなれば若者は当然、出て行くはず」と交流人口の増加という試算を疑問視した。産業界の生産額増という推計についても、山梨大大学院医学工学総合研究部の岡村美好助教は「都市部との距離が近くなることで逆に生産拠点が山梨であることの意味も薄れる。時間が短縮されれば広い土地に移る企業も出てくる」と述べた。
速いだけの鉄道は支持されない
JR東海によるリニアキャンペーンと「現実」とのギャップに人々が気付き、それを語り始めている折も折、既存の交通政策全体も現実とかみ合わなくなり、戦略的な再構築を迫られている。日本航空の経営破綻、高速道路料金無料化の是非、JR西日本の福知山線事故調査情報漏洩など、前原誠司国交相は国交相就任から三カ月も経ないうちに大難問を多く抱え込んだが、そこにリニア中央新幹線問題が加わろうとしている。
本来、リニアや整備新幹線、航空、高速道路等の整備は連動するものだ。相互の関連も考えずにバラバラに対処していては何の解決にもならない。自民党時代の運輸行政が交通網全体の総合的、戦略的「仕分け」を欠落させてきたことのツケが回ったともいえるが、鳩山政権も「コンクリートから人へ」と謳いながら、参院選を控えて整備新幹線にはアクセルを踏んでいる。「我田引鉄」の古い体質は自民から民主に引き継がれ、温存されている。
かつて第二臨調行革は、利権と選挙対策の「線路づくり」「駅づくり」はやめさせると宣言したが、国鉄改革ではこれが止まるどころか、拡大再生産された。その典型が、故金丸信が主導した?臨海副都心開発、?整備新幹線の新スキームでの建設再開、?山梨リニア実験線建設だった。今、政治に問われているのは総合交通政策を練り直し、国民的討議に付すことである。その中でリニアについても国民的合意形成が目指されるべきであろう。
中央新幹線は日本の国土軸の将来を左右するものであり、ただ速ければ、新しい技術であれば良いというものではない。数ある国プロの中でも最も「国家百年の計」に立った政府の指導性が求められるものだ。JR東海が資金を出すのだから、同社にやりたいようにやらせるというのでは、国の任務放棄である。幸いにもまだ時間はある。JR東海が火を付けたリニア中央新幹線構想を巡る論争の中から、新しい時代に相応しい公共交通のグランドデザインが形作られていくことになれば、JR東海にとっても損にはならない。
世界でリニアを計画している国は日本以外にない。ドイツはベルリン―ハンブルク間のリニア計画(総事業費九千億円)について、連邦議会が再検討した結果、中止となった。理由として、既存の鉄道とのネットワークがうまくいかないことが挙げられている。速いだけの鉄道は利用者に支持されないと判断したからだ。