戦後70年・日本のサイエンス:核利用、科学者の責任とは 被爆国の原発推進 - 毎日新聞


良い記事ですね。
唐木順三さんの本を読んでいない方は是非。
核廃絶が核軍縮、平和利用に変色した歴史

転載
20世紀の科学が突き止めた原子核分裂反応は、人類に原爆と原発をもたらした。エネルギーや経済発展に恩恵もあったが、日本は2度の原爆投下と東京電力福島第1原発事故の惨禍に揺れた。強大な核エネルギーの利用に対し、科学者は自らの社会的責任とどう向き合ってきたのか。【千葉紀和】
 ◇研究至上主義の功罪

 「日本の地から原子核研究の芽をつみ取られる事は誠に残念」−−。戦後70年を前に見つかった京都帝国大(現京都大)教授、荒勝文策の自筆日誌には痛恨の思いがつづられていた。

 太平洋戦争末期、旧日本軍は原爆開発の極秘研究を2人の原子核物理学者に託した。陸軍は理化学研究所の仁科芳雄に通称「ニ号研究」を委託。一方、海軍が頼ったのが荒勝だった。

 fission(核分裂)の頭文字を取り「F研究」と呼ばれたが、内実は兵器開発にはほど遠かった。核分裂の連鎖反応を起こすための臨界量など理論計算は進めていたが、原料のウランの濃縮実験にも至らず、むしろ純学問的な研究に重点が置かれていた。物資の乏しい中でも研究費は軍から出た。若い研究者も召集されなかった。

 終戦後の1945年11月、連合国軍総司令部(GHQ)は、京都帝大や理研などのサイクロトロン(円形加速器)4基を全て破壊した。原子核反応や生物学の基礎研究に使う装置だったが、「原爆開発に転用される」と疑ったからだ。事件は国内外で批判を呼び、後に米陸軍長官が破壊は誤りだったと認めたが、日本の原子核研究は大きく出遅れた。

 冒頭の述懐はその事件を巡るものだ。日誌には、F研究に関わった同僚の湯川秀樹と事件について語り、「原子核物理学は決して原子爆弾製造学では無いと云(い)うことを相互により理解し合った」場面も出てくる。

 「2人の思いとは裏腹に、戦勝国の代表から作る極東委員会が47年に原子力研究禁止を決議したため、占領解除まで日本での原子核の実験研究は不可能になった。戦争に科学者が関わるとはどういうことかを考えさせられる」。核開発の歴史に詳しい科学史家の山崎正勝・東京工業大名誉教授(70)は語る。

 荒勝は広島への原爆投下後、いち早く現地調査し、ベータ線の測定などから「新型爆弾」の正体を科学的に突き止めた。次は京都が標的とのうわさを聞くと、比叡山頂から爆発を観測してデータを取ろうと京都に帰った。荒勝の孫弟子で、日誌を見つけた素粒子物理学者の政池明・京大名誉教授(80)は「あの時代に『研究至上主義』を貫いた荒勝や湯川の姿勢は評価すべきだが、現代の観点からは議論があるだろう」と問いかける。
 ◇政治の前に無力

 物質の根源の構造とも言える原子の知的探求から、ドイツでウランの核分裂が発見されたのは38年。7年後には米国で核兵器に姿を変え、原爆の原料となるプルトニウム製造が主目的だった原子炉も原子力潜水艦の動力として利用された。

 だが、戦後、核エネルギーは「核兵器は軍事利用」「原発は平和利用」と線引きされていく。

 日本の原子力研究が解禁された52年前後、科学者は研究の未来像を熱く議論した。リベラルな理論物理学者として知られた武谷三男は、軍事転用の法的な規制を論文で主張。科学者の代表機関・日本学術会議は54年、「原子力の研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」を発表し、3原則は原子力基本法に盛り込まれた。ただ、関心は軍事利用への警戒に集中し、被爆国であるにもかかわらず、「平和利用」自体を疑う声は乏しかった。

 米大統領が国連で「原子力の平和利用」を呼びかけたのを機に、日本の政界は原発導入へと一気に動き出す。米国の技術を導入する日米原子力協定が承認され、政策の方針を決める原子力委員会が発足すると、3原則は早くも骨抜きになる。

 原子核に関する研究で49年に日本人初のノーベル賞を受賞した湯川は、請われて原子力委員に就いた。湯川は原発も研究を重視し、自主開発を主張したが、輸入を急ぐ初代委員長の正力松太郎と対立。約1年で辞任した。

 さらに、日本の商用原子炉1号となる英国製黒鉛炉の導入の是非を巡り、原子力委が56年、経団連の初代会長、石川一郎を団長とする訪英調査団を派遣した。科学界からは、東京大教授を務めた有力な物理学者の嵯峨根遼吉が出ていた。同行したセイコー電子工業(現セイコーインスツル)の原礼之助・元社長(90)は内幕を明かす。

 嵯峨根は英国で黒鉛炉を見て「構造的に地震に弱く火災が起きやすい。この炉は日本ではダメだ」と指摘した。だが、「炉を買えば、英国人捕虜の虐待問題などで悪化していた英国の対日感情が改善される。資源国の豪州との関係も良くなる」とする石川の考えを伝え聞くと、「そういう見方があるなら良いと、反対しなかった」。

 この黒鉛炉については、湯川の盟友で戦後の素粒子論をリードした坂田昌一が59年、「安全との答申に責任が持てない」と原子力委の専門部会委員を辞任した。坂田は、安全審査機関の独立性強化を強く訴えた。

 「2人の辞任を潮目に、多くの物理学者が原発論議から離れた」。湯川や坂田の活動を支えた元日本物理学会長の小沼通二(みちじ)・慶応大名誉教授(84)は後悔と共に振り返る。原発技術の輸入で物理学者の協力は不可欠でなくなり、原子力の主役は工学者や技術者に代わっていった。

 「無力感もあったが、言うべきことは言ったとの思いもあった。しかし、福島第1原発事故で表れた問題は全て50年代に出ていた」と小沼さんは悔やむ。

 この時代、核を巡る別の歴史的転機があった。54年、日本の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の船員が、南太平洋ビキニ環礁で実施された米軍の水爆実験で被爆した「ビキニ事件」だ。

 実態を調べ、核実験の脅威を世界に発信したのが、放射線生物物理学を開拓した西脇安(やすし)だった。西脇は戦時中、ニ号研究に協力した大阪帝大(現大阪大)で、ウラン濃縮実験に関わった。戦後は放射性物質の研究が唯一認められた医学分野に進む。ビキニ事件では船が帰港した静岡・焼津に急ぎ、降り注いだ「死の灰」を分析した。

 すぐに欧州10カ国を訪れ、被爆の実態を講演で訴えた。西脇が示したデータは、英国の物理学者ジョセフ・ロートブラットらを動かし、核廃絶を目指す科学者の国際組織「パグウォッシュ会議」創設につながった。
 ◇薄れる拒否反応

 一方で西脇は「平和利用」には積極的だった。黒鉛炉導入を巡る原子力委の公聴会でも「事故が起きても欧米のデータに基づけば周辺住民に大きな影響はない」と主張した。放射線の影響を研究し、国際原子力機関(IAEA)など海外で活躍した西脇は晩年、故郷の大阪で福島原発事故の発生を知る。妻の栄さん(66)は、事故状況を連日伝える映像を食事も取らずに見続けた姿を覚えている。声をかけると「僕に何をしろと言うんだ」と、珍しく声を荒らげたという。核時代の節目を生きた西脇は、事故の約2週間後に他界した。

 パグウォッシュ会議には、湯川や坂田、朝永振一郎ら日本を代表する物理学者が積極的に参加した。ナチス政権下のドイツで学んだ経験を持つ朝永は、参加後に書いた論文の一節にこう記した。「科学者の任務は、法則の発見で終(おわ)るものでなく、それの善悪両面の影響の評価と、その結論を人々に知らせ、それをどう使うかの決定を行なうとき、判断の誤りをなからしめるところまで及ばねばならぬ」

 同会議は95年、軍縮への貢献でノーベル平和賞を受けたが、今や存在感は低下している。

 その会議の世界大会が「被爆70年」の今年11月、長崎で開かれる。組織委員長は原子力工学者の鈴木達治郎・長崎大教授(64)。福島の原発事故後、原子力委員長代理として原子力政策に深く関わった。今大会では「福島の教訓」や「科学者の社会的責任」も議題にするという。

 若手時代に会議を支えた素粒子物理学者の益川敏英・京大名誉教授(75)は政府が防衛にも応用可能な民生技術(デュアルユース技術)を推奨する現状を指摘し、危機感を募らせる。「そのような動きに対する拒否反応が自然と研究者にあったが、薄れてきている。次の世代に受け渡す任務が我々にある」






あとがきは島薗進先生