終わっていない戦後、読んでいて涙が止まらなくなった。
「何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である」
堀川惠子『原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)
広島に歳はないんよ
かつては広島有数の繁華街であった爆心地一帯が、分厚いコンクリートで塗り固められ、平和記念公園として整備されたのは1954年(昭和29年)のことです。私が生まれた翌年にあたり、その頃から60年代半ば過ぎまで、祖父母の家のあったこの町に、年に2〜3回は通ったものです。原爆死没者慰霊碑にも資料館にも時折出かけ、原爆のもたらした惨状については、多少なりとも知っているほうだと思っていました。
「君はヒロシマで何も見ていない、何も」
「私はすべてを見たわ、すべてを」
アラン・レネ監督の「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」のあまりにも有名な冒頭の台詞ですが、自分が「ヒロシマを見た」と本当に言えるのかどうか――問いかける余地があることは、いやが上にもずっと感じていたことです。本書を読んで、やはり何も知らなかったと改めて思わざるを得ませんでした。深いため息に襲われます。
おそらく90年代の初めごろだったと思いますが、原爆死没者慰霊碑から少し離れた原爆供養塔の前で、8月6日のありさまを語る女性の姿をテレビ番組が伝えていました。原爆供養塔というものの存在は、それまでまったく知りませんでした。
平和記念公園の片隅にある小山のような塚。地元の人からは「土饅頭(どまんじゅう)」と呼ばれている円墓で、天辺には石塔が置かれ、地下には約7万人の引き取り手のない原爆被災者の遺骨が収められています。丹下健三設計のモダンな原爆死没者慰霊碑や資料館に比べると影がうすく、人に気づかれないのも無理はないかもしれません。観光客の見学コースからも外れ、訪れる人もまばらです。番組では修学旅行生とおぼしき子どもたちを前に、その女性が原爆投下直後の凄まじい光景を説明しているところでした。
本書はその語り部、佐伯敏子さんの半生の記から始まります。広島テレビ放送の記者だった著者は、「原爆供養塔に行けば必ず会える」と言われていた佐伯さんと、1993年(平成5年)に知り合います。それまで35年間、喪服姿で毎日ここへ通い、あたりを掃き清め、誰に頼まれたわけでもないのに「墓守」を続けてきた佐伯さんのことは、「広島の大母(おおかあ)さん」として知られていました。ある時期からは、求められれば修学旅行の子どもたちに、自らの体験や墓の由来を語っていました。
昭和20年8月6日午前8時15分。爆心地から離れたところで難を免れた佐伯さんは、母親を探しに被爆直後の市内に入ります。それによって、2次被爆で放射能を浴びた臓器という臓器は、後にことごとく病に冒されます。歯がボロボロ抜け落ち、身体はいつも鉛のように重く、いたるところにメスが入って満身創痍。残された時間はそう長くないと覚悟した彼女が、自宅の机に向かって「遺書」ノートを書き始めたのは、奇しくも原爆供養塔が平和記念公園に再建された昭和30年8月6日からでした。
〈敏子には、死ぬ前に、どうしても息子たちに書き残しておきたいことがあった。
復興の進む広島の町はすっかりきれいになって、今ではまるで何事もなかったような顔をしている。しかし、自分の目の前で繰り広げられた一族一三人の悲惨な死、遺骨まで燃やし尽くされた家族の存在。今はもう誰も口にすることのないそれらの事々はすべて、ほんの一〇年前、本当に広島の町で起きたことなのだ。
三人の息子たちは、今はまだ小さくて興味は持たないだろう。それでも大人になればきっと、母のことを思い出し、読んでくれる日がくる。そんなすがるような思いで毎夜、筆をとった〉
「遺書」の完成には3年の歳月を要しました。そんなある日、平和記念公園に足を向けた彼女は、その片隅に「土饅頭と呼ばれる塚」を発見します。「地下には、原爆で亡くなった何十万人もの人たちが遺骨になって安置されている」と聞きます。手を合わせる人もほとんどいない塚でしたが、草を抜いたり、周りの掃除をしながら「無心で身体を動かしていると、心まで落ち着くような」気がします。これがいつしか日課となりました。
こうして供養塔に通い始めた13年目の春に、大きな転機が訪れます。広島市から地下室の鍵を預かっていた人物が、日参する佐伯さんの人柄を信頼して、地下室の合い鍵を渡したのです。翌日から、外周りの掃除を終えると、遺骨を入れた木箱がびっしりと並ぶ地下室に足を踏み入れるようになりました。そこで約2200人の人名録があるのを発見します。骨箱の番号とそこに納められた遺骨の名前、住所、その他の情報を書き取ったものでした。
彼女はその名簿を筆写し、骨箱を点検し、わずかな手がかりから遺族を探し始めます。遺骨を家族のもとに返す作業を、一人で黙々と始めます。こうして半年の間に10人の遺骨が遺族のもとに返還されました。その姿勢に行政もようやく重い腰を上げ、ここから多くの身元が判明していきます。本書の前半は、この稀有なる墓守の半生がつぶさに語られています。
その佐伯さんが1998年末に病に倒れ、人前からぷっつり姿を消しました。東京でフリーのジャーナリストになっていた著者が、彼女の行方を探し、再会を果たすのは2013年春のこと。老人保健施設に入り93歳になっていた彼女は、視力を失い、歩くことはできなくなっていました。
〈久しぶりに再会した日、佐伯さんはベッドの上で語り続けた。まるで心の内に溜めていた思いの丈(たけ)を吐き出すように、原爆供養塔のこと、正確にはその「地下室」のことを何度も繰り返した。(略)
遺骨となった死者たちは、あの地下室に無縁仏として置かれたまま。その遺骨の上に今、七〇年という歳月が流れようとしている。想いは募(つの)れども、自分ではもう一歩も歩くことすらできぬ無念さが、歳(とし)を重ねた佐伯さんの心を激しく揺さぶっていた〉
小さな身体から絞り出すようにして発せられる、彼女の言葉が強く響きます。
「今じゃ、みんな広島の中心は原爆慰霊碑じゃと思うとる。そりゃあ無いよりはましじゃけど、本当は遺骨がある場所が広島の中心よね。みんなあそこを平和公園というけれど、本当は平和な場所なんかじゃないんよ。静かでのどかな場所に見えるけど、供養塔の地下室は、あの日のまんま。安らかに眠れというけれど、安らかになんか眠りようがないんよ」
「生きている人はね、戦後何年、何年と年を刻んで、勝手に言うけどね、死者の時間はそのまんま。あの日から何にも変わってはおらんのよ。年を数えるのは生きとる者の勝手。生きとる者はみんな、戦後何十年と言いながら、死者のことを過去のものにしてしまう。死者は声を出せんから、叫び声が聞こえんから、みんな気付かんだけ。広島に歳はないんよ。歳なんかとりたくても、とれんのよ」
佐伯さんのその思いを引き継ぐかのように、「原爆供養塔納骨名簿」に記されている816人分の遺骨のうち、名前だけでなく、本籍や年齢、勤務先など具体的な情報が記載された遺骨の身元探しに乗り出す著者自身の旅が本書の後半です。名前だけならともかく、住所や番地まで分かっている遺骨なのに、なぜ引き取り手が現われないのか。そんな疑問から始まった取材は、行政やプライバシーの壁、何より70年の歳月という大きな障害に阻まれて、容易に先へは進みません。手がかりが得られぬまま、半年も徒労を重ねているうちに、一つの疑問が湧いてきます。納骨名簿に記されている内容は、本当に正しいのか――。
ここからは著者の本領発揮です。死刑囚をめぐる問題に肉迫した一連の著作(*)で示した粘り強い取材と執念が、今回も知られざる事実を明らかにしていきます。名簿に記されていた当人が「実は生きていた」というミステリーまがいの発見もあれば、朝鮮半島から日本に来ていた被爆者の問題にも突き当たります。通名(日本名)と朝鮮名という2つの名前があったために、該当者が見つからなかったというケースです。
沖縄戦直前までの約半年間に、本土へ強制移動させられた沖縄県民がいました。高齢者、女性、学童ら約10万人を疎開させるという政府の決定で、目的は「やがて戦場となる沖縄から足手まといになりかねない人間を排除して食糧を確保する」という軍の作戦を優先した強制退去でした。そこに生まれた悲劇のひとつが、児童800人を含む1500人が犠牲となった疎開船「対馬丸」の事件です。また多くの若者がこの頃に召集され、軍事拠点である広島にも送られています。広島、長崎で被爆した沖縄県民が多く存在する理由です。
さて、そもそも納骨名簿はどうやって作られたのか。生死の境をさまよう被爆者から名前や住所を聞き取ったのは誰なのか――。それは、本土決戦の特攻要員として全国の農漁村から集められた少年兵たちでした。爆心の町へと送り込まれ、劫火の中で遺体の処理にあたり、まだ息のある人たちが集められた救護所では瀕死の被災者から名前や住所を必死で書き取ったというのです。
〈話す方言も異なり、広島の地名もよく分からぬ一〇代の少年兵が、見知らぬ地で息も絶え絶えの重傷者から必死に身元を聞き出す。そこに間違いが生まれることに何の不思議があろうか〉
名簿の記載内容は「おうとるほうが、不思議よね」という佐伯さんの言葉が腑に落ちます。
「遺族が分かるということのほうが奇跡なんよね……。でもそれもまた、本当は違うとるかもしれん、だけど、もし何か手がかりが見つかったら、それは伝えんといけん。いらんと言われても、伝えるだけは伝えんといけん。それは知った者の務めよね。
……二〇〇〇柱、名前の分かっとる遺骨があって、その中のたった一〇人とか二〇人くらいしか、本当の真実はないかもしれん。だからといって、それを捨てることはできんのよ。死者を見捨てることは、できんのよ。名前や住所が違うとるのは、生きている者のしわざじゃから。あそこに眠る死者たちはみんな、息をひきとる前に家族のもとに帰りたいと思いながら、自分の名前や住所を伝えていかれたんじゃから。その気持ちを考えるとね、知ってしまった人間として知らんふりはできんのよ」
8月6日、焼き尽くされた死の町にどういう人たちがいたか。10万、20万という概数で語られる死者ではなく、「ひとり」の死者に向き合おうとする時、予想もしなかった真実が浮かび上がってきます。これまで知り得なかった死者の群像劇が立ち上がります。読者は本書の後半で、こうした事実の衝撃にうろたえながら、声にならない死者たちの叫びを聞くような思いになるはずです。
再会の日に佐伯さんは著者に言いました。「死者の本当の気持ちにふれてしもうたんじゃ。じゃから、自分がこれからどうするか、自分の頭で考えんといけんよね」と。そして、遺骨の行方を追った旅の報告を聞き終えると、念を押すように何度も繰り返しています。「知った者は歩き続けなくてはならないのよ」、「撒いた種はいつか芽が出てくるからね」と。
〈歴史は生き残った者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最期の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である。
……「死」はいつも誰にとっても、厳しく残酷だ。それが戦場であればなおさらである。みな、生命の最期の一滴が零(こぼ)れ落ちる間際まで、死にたくない、もっと生きたいと願っていたはずだ〉
被爆者一人一人の死に寄り添うことの重さを、改めて考えさせられます。
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
*『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)、『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙』(講談社)、『永山則夫――封印された鑑定記録』(岩波書店)、『教誨師』(講談社)。
「何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である」
堀川惠子『原爆供養塔――忘れられた遺骨の70年』(文藝春秋)
広島に歳はないんよ
かつては広島有数の繁華街であった爆心地一帯が、分厚いコンクリートで塗り固められ、平和記念公園として整備されたのは1954年(昭和29年)のことです。私が生まれた翌年にあたり、その頃から60年代半ば過ぎまで、祖父母の家のあったこの町に、年に2〜3回は通ったものです。原爆死没者慰霊碑にも資料館にも時折出かけ、原爆のもたらした惨状については、多少なりとも知っているほうだと思っていました。
「君はヒロシマで何も見ていない、何も」
「私はすべてを見たわ、すべてを」
アラン・レネ監督の「二十四時間の情事(ヒロシマ・モナムール)」のあまりにも有名な冒頭の台詞ですが、自分が「ヒロシマを見た」と本当に言えるのかどうか――問いかける余地があることは、いやが上にもずっと感じていたことです。本書を読んで、やはり何も知らなかったと改めて思わざるを得ませんでした。深いため息に襲われます。
おそらく90年代の初めごろだったと思いますが、原爆死没者慰霊碑から少し離れた原爆供養塔の前で、8月6日のありさまを語る女性の姿をテレビ番組が伝えていました。原爆供養塔というものの存在は、それまでまったく知りませんでした。
平和記念公園の片隅にある小山のような塚。地元の人からは「土饅頭(どまんじゅう)」と呼ばれている円墓で、天辺には石塔が置かれ、地下には約7万人の引き取り手のない原爆被災者の遺骨が収められています。丹下健三設計のモダンな原爆死没者慰霊碑や資料館に比べると影がうすく、人に気づかれないのも無理はないかもしれません。観光客の見学コースからも外れ、訪れる人もまばらです。番組では修学旅行生とおぼしき子どもたちを前に、その女性が原爆投下直後の凄まじい光景を説明しているところでした。
本書はその語り部、佐伯敏子さんの半生の記から始まります。広島テレビ放送の記者だった著者は、「原爆供養塔に行けば必ず会える」と言われていた佐伯さんと、1993年(平成5年)に知り合います。それまで35年間、喪服姿で毎日ここへ通い、あたりを掃き清め、誰に頼まれたわけでもないのに「墓守」を続けてきた佐伯さんのことは、「広島の大母(おおかあ)さん」として知られていました。ある時期からは、求められれば修学旅行の子どもたちに、自らの体験や墓の由来を語っていました。
昭和20年8月6日午前8時15分。爆心地から離れたところで難を免れた佐伯さんは、母親を探しに被爆直後の市内に入ります。それによって、2次被爆で放射能を浴びた臓器という臓器は、後にことごとく病に冒されます。歯がボロボロ抜け落ち、身体はいつも鉛のように重く、いたるところにメスが入って満身創痍。残された時間はそう長くないと覚悟した彼女が、自宅の机に向かって「遺書」ノートを書き始めたのは、奇しくも原爆供養塔が平和記念公園に再建された昭和30年8月6日からでした。
〈敏子には、死ぬ前に、どうしても息子たちに書き残しておきたいことがあった。
復興の進む広島の町はすっかりきれいになって、今ではまるで何事もなかったような顔をしている。しかし、自分の目の前で繰り広げられた一族一三人の悲惨な死、遺骨まで燃やし尽くされた家族の存在。今はもう誰も口にすることのないそれらの事々はすべて、ほんの一〇年前、本当に広島の町で起きたことなのだ。
三人の息子たちは、今はまだ小さくて興味は持たないだろう。それでも大人になればきっと、母のことを思い出し、読んでくれる日がくる。そんなすがるような思いで毎夜、筆をとった〉
「遺書」の完成には3年の歳月を要しました。そんなある日、平和記念公園に足を向けた彼女は、その片隅に「土饅頭と呼ばれる塚」を発見します。「地下には、原爆で亡くなった何十万人もの人たちが遺骨になって安置されている」と聞きます。手を合わせる人もほとんどいない塚でしたが、草を抜いたり、周りの掃除をしながら「無心で身体を動かしていると、心まで落ち着くような」気がします。これがいつしか日課となりました。
こうして供養塔に通い始めた13年目の春に、大きな転機が訪れます。広島市から地下室の鍵を預かっていた人物が、日参する佐伯さんの人柄を信頼して、地下室の合い鍵を渡したのです。翌日から、外周りの掃除を終えると、遺骨を入れた木箱がびっしりと並ぶ地下室に足を踏み入れるようになりました。そこで約2200人の人名録があるのを発見します。骨箱の番号とそこに納められた遺骨の名前、住所、その他の情報を書き取ったものでした。
彼女はその名簿を筆写し、骨箱を点検し、わずかな手がかりから遺族を探し始めます。遺骨を家族のもとに返す作業を、一人で黙々と始めます。こうして半年の間に10人の遺骨が遺族のもとに返還されました。その姿勢に行政もようやく重い腰を上げ、ここから多くの身元が判明していきます。本書の前半は、この稀有なる墓守の半生がつぶさに語られています。
その佐伯さんが1998年末に病に倒れ、人前からぷっつり姿を消しました。東京でフリーのジャーナリストになっていた著者が、彼女の行方を探し、再会を果たすのは2013年春のこと。老人保健施設に入り93歳になっていた彼女は、視力を失い、歩くことはできなくなっていました。
〈久しぶりに再会した日、佐伯さんはベッドの上で語り続けた。まるで心の内に溜めていた思いの丈(たけ)を吐き出すように、原爆供養塔のこと、正確にはその「地下室」のことを何度も繰り返した。(略)
遺骨となった死者たちは、あの地下室に無縁仏として置かれたまま。その遺骨の上に今、七〇年という歳月が流れようとしている。想いは募(つの)れども、自分ではもう一歩も歩くことすらできぬ無念さが、歳(とし)を重ねた佐伯さんの心を激しく揺さぶっていた〉
小さな身体から絞り出すようにして発せられる、彼女の言葉が強く響きます。
「今じゃ、みんな広島の中心は原爆慰霊碑じゃと思うとる。そりゃあ無いよりはましじゃけど、本当は遺骨がある場所が広島の中心よね。みんなあそこを平和公園というけれど、本当は平和な場所なんかじゃないんよ。静かでのどかな場所に見えるけど、供養塔の地下室は、あの日のまんま。安らかに眠れというけれど、安らかになんか眠りようがないんよ」
「生きている人はね、戦後何年、何年と年を刻んで、勝手に言うけどね、死者の時間はそのまんま。あの日から何にも変わってはおらんのよ。年を数えるのは生きとる者の勝手。生きとる者はみんな、戦後何十年と言いながら、死者のことを過去のものにしてしまう。死者は声を出せんから、叫び声が聞こえんから、みんな気付かんだけ。広島に歳はないんよ。歳なんかとりたくても、とれんのよ」
佐伯さんのその思いを引き継ぐかのように、「原爆供養塔納骨名簿」に記されている816人分の遺骨のうち、名前だけでなく、本籍や年齢、勤務先など具体的な情報が記載された遺骨の身元探しに乗り出す著者自身の旅が本書の後半です。名前だけならともかく、住所や番地まで分かっている遺骨なのに、なぜ引き取り手が現われないのか。そんな疑問から始まった取材は、行政やプライバシーの壁、何より70年の歳月という大きな障害に阻まれて、容易に先へは進みません。手がかりが得られぬまま、半年も徒労を重ねているうちに、一つの疑問が湧いてきます。納骨名簿に記されている内容は、本当に正しいのか――。
ここからは著者の本領発揮です。死刑囚をめぐる問題に肉迫した一連の著作(*)で示した粘り強い取材と執念が、今回も知られざる事実を明らかにしていきます。名簿に記されていた当人が「実は生きていた」というミステリーまがいの発見もあれば、朝鮮半島から日本に来ていた被爆者の問題にも突き当たります。通名(日本名)と朝鮮名という2つの名前があったために、該当者が見つからなかったというケースです。
沖縄戦直前までの約半年間に、本土へ強制移動させられた沖縄県民がいました。高齢者、女性、学童ら約10万人を疎開させるという政府の決定で、目的は「やがて戦場となる沖縄から足手まといになりかねない人間を排除して食糧を確保する」という軍の作戦を優先した強制退去でした。そこに生まれた悲劇のひとつが、児童800人を含む1500人が犠牲となった疎開船「対馬丸」の事件です。また多くの若者がこの頃に召集され、軍事拠点である広島にも送られています。広島、長崎で被爆した沖縄県民が多く存在する理由です。
さて、そもそも納骨名簿はどうやって作られたのか。生死の境をさまよう被爆者から名前や住所を聞き取ったのは誰なのか――。それは、本土決戦の特攻要員として全国の農漁村から集められた少年兵たちでした。爆心の町へと送り込まれ、劫火の中で遺体の処理にあたり、まだ息のある人たちが集められた救護所では瀕死の被災者から名前や住所を必死で書き取ったというのです。
〈話す方言も異なり、広島の地名もよく分からぬ一〇代の少年兵が、見知らぬ地で息も絶え絶えの重傷者から必死に身元を聞き出す。そこに間違いが生まれることに何の不思議があろうか〉
名簿の記載内容は「おうとるほうが、不思議よね」という佐伯さんの言葉が腑に落ちます。
「遺族が分かるということのほうが奇跡なんよね……。でもそれもまた、本当は違うとるかもしれん、だけど、もし何か手がかりが見つかったら、それは伝えんといけん。いらんと言われても、伝えるだけは伝えんといけん。それは知った者の務めよね。
……二〇〇〇柱、名前の分かっとる遺骨があって、その中のたった一〇人とか二〇人くらいしか、本当の真実はないかもしれん。だからといって、それを捨てることはできんのよ。死者を見捨てることは、できんのよ。名前や住所が違うとるのは、生きている者のしわざじゃから。あそこに眠る死者たちはみんな、息をひきとる前に家族のもとに帰りたいと思いながら、自分の名前や住所を伝えていかれたんじゃから。その気持ちを考えるとね、知ってしまった人間として知らんふりはできんのよ」
8月6日、焼き尽くされた死の町にどういう人たちがいたか。10万、20万という概数で語られる死者ではなく、「ひとり」の死者に向き合おうとする時、予想もしなかった真実が浮かび上がってきます。これまで知り得なかった死者の群像劇が立ち上がります。読者は本書の後半で、こうした事実の衝撃にうろたえながら、声にならない死者たちの叫びを聞くような思いになるはずです。
再会の日に佐伯さんは著者に言いました。「死者の本当の気持ちにふれてしもうたんじゃ。じゃから、自分がこれからどうするか、自分の頭で考えんといけんよね」と。そして、遺骨の行方を追った旅の報告を聞き終えると、念を押すように何度も繰り返しています。「知った者は歩き続けなくてはならないのよ」、「撒いた種はいつか芽が出てくるからね」と。
〈歴史は生き残った者たちの言葉で語られる。しかし戦争の最大の犠牲者は、言葉を持たぬ死者たちだ。あらゆる戦場において、家族への最期の言葉も、一言の文句も哀しみも、何も言い残すことすら許されず殺されていった人たちの存在こそ、今、私たちが立ち戻るべき原点である。
……「死」はいつも誰にとっても、厳しく残酷だ。それが戦場であればなおさらである。みな、生命の最期の一滴が零(こぼ)れ落ちる間際まで、死にたくない、もっと生きたいと願っていたはずだ〉
被爆者一人一人の死に寄り添うことの重さを、改めて考えさせられます。
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
*『死刑の基準――「永山裁判」が遺したもの』(日本評論社)、『裁かれた命――死刑囚から届いた手紙』(講談社)、『永山則夫――封印された鑑定記録』(岩波書店)、『教誨師』(講談社)。