【社説】首相発言 自ら憎しみをあおる愚 | カナロコ


2月8日の神奈川新聞社説 備忘録

売り言葉に買い言葉といった趣に慄然(りつぜん)とする。過激派「イスラム国」による人質殺害事件を受けた安倍晋三首相の発言のことである。自民党内の会合で「日本人にはこの先、指一本触れさせない」と語った。

 念頭にあったのはジャーナリスト後藤健二さんを殺害し、インターネット上に公開された映像声明であろう。「アベ」と名指しし、「おまえの国民を場所を問わずに殺りくするだろう」と続いていた。

 テロリストと同じ土俵に乗り、投げ返した首相の言葉はどう喝的、かつ好戦的と言わざるを得ない。

 「罪を償わせる」との発言は米メディアから「平和主義の外交方針を放棄しようとする安倍氏の取り組みの一環」と評された。「テロリストの思いを忖度(そんたく)してそれに気を配る、あるいは屈するようなことがあってはならない」に至っては、身代金交渉に応じることもテロに屈することになってしまうという意味で理性的とはほど遠かった。

 言葉は人の内面を表す。前のめりに映る言動からは、いまこそ悲願を遂げる好機と心得、胸の内で叫ぶ快哉(かいさい)が聞こえてこないだろうか。

 3日の参院予算委員会で首相が意欲を示したのは憲法9条の改正だった。「国民の生命と財産を守る任務を全うするためだ」と持論を述べたが、人質事件と9条改正を結びつける我田引水は、今回の事態を奇貨としている証しではないのか。

 怒りや憎しみ、恐怖によって目を曇らせ、知らず暴力の連鎖に引きずり込む。そこにテロリストの策謀があると知るべきだ。対決の構えを見せるほどに敵としての姿は鮮明になり、ゆがんだ大義は正当化されていく。共鳴した同志によってテロが日本で遂行されれば、イスラム国は支配領域を拡大することになる。

 その死に責任があるとも語った首相こそがかみしめるべき言葉がある。ネット上で注目を集めている後藤さんの過去のツイートである。

 その一つにはこうある。

 〈目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。−そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった〉

 憎悪を示すことはテロに屈しないことと同義ではない。いま、愛する人を思い、いかなる命ももてあそばれ、利用されてはならないと確かめ合うための言葉をこそ語りたい。

【神奈川新聞】

2月7日産経抄

わがことながら日本人は、敗戦から70年という歳月をかけて本当に優しくなった。「イスラム国」という名のならず者集団に空軍パイロットが焼き殺されたヨルダンは、さっそく報復爆撃を始め、指揮官を含む55人以上を殺戮(さつりく)した。

 ▼ヨルダンでは、「なぜ2人も殺された日本がともに戦わないのか」という声が高まっているという。日本には憲法の制約があって云々(うんぬん)、と説明してもまず理解されぬだろう。

 ▼憎しみの連鎖を断たねばならぬ、というご高説は一見もっともらしい。後藤健二さん自身も数年前、「憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。−そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」とつぶやいている。

 ▼だからといって処刑直前も彼はそんな心境だった、とどうしていえようか。助けにいった湯川遥菜さんが斬首されたときの写真を持たされ、家族に脅迫メールを送られ、心ならずも犯人側のメッセージを何度も読まされた後藤さんの心境は想像を絶する。

仇(かたき)をとってやらねばならぬ、というのは人間として当たり前の話である。第一、「日本にとっての悪夢の始まりだ」と脅すならず者集団を放っておけば、第二、第三の後藤さんが明日にも出てこよう

 ▼日本国憲法には、「平和を愛する諸国民の公正と信義」を信頼して、わが国の「安全と生存を保持しようと決意した」とある。「イスラム国」のみならず、平和を愛していない諸国民がいかに多いことか。この一点だけでも現行憲法の世界観が、薄っぺらく、自主独立の精神から遠く離れていることがよくわかる。護憲信者のみなさんは、テロリストに「憲法を読んでね」とでも言うのだろうか。命の危険にさらされた日本人を救えないような憲法なんて、もういらない。