NHK【ETV特集】ふるさと“水俣”に生きる 〜次世代からのメッセージ〜 2014年6月28日(土)夜11時、再放送:2014年7月5日(土)午前0時00分(金曜深夜)
患者さんの子供たちが成人し、胎児性水俣病の方は60代になる。
原田先生のお嬢さんが社会学として水俣を捉える。
被害者であるのに差別偏見を受け続けてきた歴史、福島との共通性もそこに見え隠れする。
正義とは何か?
品性お下劣失言大臣もちょっと映像に登場していた。
本年慰霊祭での「祈りの言葉」
水俣病患者・遺族代表 「祈りの言葉」 水俣病資料館より
「俺が鬼か…。親父は…69で死んだぞ…。精神病院の…、畳もなか部屋で…、牢屋のごたる檻の中で…誰にも看取られず…一人で死んだぞ…。やせ細った親父の身体を抱いて俺は、情けなくて…一人泣いたぞ…。ひと匙なりと米の粥ば、口に入れてやろうごたった…。その米を買う銭もなかった…。わかるかな…社長…。」自主交渉派のリーダーとして、チッソ本社に座り込んだ父川本輝夫は、行き詰った交渉の席で、島田社長に対して水俣病で狂い死にした祖父のことを、涙にむせびながら独り言のように語りかけました。
父の闘いは、不条理に奪われた人間としての尊厳と生活を、名前を持った一人ひとりのその手に取り戻すことにありました。
昭和46年12月6日、父は「一週間くらいで帰ってくるばい。」と私たち家族に言い残して、チッソとの自主交渉のために東京に向かいました。しかし、父が家に帰ってきたのは1年9ケ月後でした。私は中学2年生から3年生、そして高校生へ、妹は小学5年生から6年生、そして中学生になっていました。多感な思春期の真只中のことです。東京で激しい交渉が続き、父たちがニュースにでると、その夜中には決まって家に嫌がらせ電話がありました。夜中の2時3時です。父は、チッソとの自主交渉で東京にいましたので、母と私と妹の3人暮らしでした。恐る恐る電話に出ると「バカ」と言って切れます。葉書は、住所も熊本県川本輝夫で届きました。葉書の裏には、「死ね」と大きく書いてありました。また、朝起きたら玄関に消火器が置いてあったことも覚えています。これ以上水俣病事件でチッソを責めると火をつけるぞと言う脅しです。このような状況だったので、母は私たちに、懐中電灯を一つずつ抱かせて寝かせていました。夜、暴漢が家に入ってきた時は、懐中電灯を頼りに裏口から隣の家に逃げ込むようにと言い聞かせていました。
父は、過酷な闘いの中で3回も逮捕されました。しかし、全て無罪です。また、自宅の家宅捜索は2回受けました。子ども心にも大変悔しく悲しかったことを覚えています。このような過酷な環境でしたが、私たち兄弟は、いつも胸をはって生きてきました。母が私たちに「父ちゃんはえらかっぞ。いつも人のために闘っている。」と教え続けたからです。
父は、「水俣病は底の深かぞ。どこらあたりが底か。洗い出してくれる。」と口癖のように言っていました。祖父は、昭和40年4月に狂騒状態で亡くなりました。しかし、未だ未認定です。父は、認定されましたが、自身の認定後も患者救済に生涯をささげ平成11年2月に亡くなりました。父は「熱意とは、ことある毎に意志を表明することに他ならない。」という言葉を残してくれました。私は、信念に生きた父と支えきった母を誇りに思います。
母は、父の死後、平成14年1月から、私は、平成20年5月から水俣病資料館の語り部をしています。ある時私の語り部の後、小学5年生の男の子が「川本輝夫さんは長い闘いをしてこられたのですね。」という感想を述べました。長い闘い…、何という言葉でしょう。未来を託す子どもたちに「長い闘い」と思わせることに、大人として言葉にできない悔しさと責任を痛感します。父が自主交渉の闘いを始めた年と同じ昭和46年7月に、現在の環境省の前身となる環境庁が発足しました。今年で発足43年目を迎えますが、歴代の長官・大臣を通算すると、本日ご出席してくださいました石原伸晃環境大臣は58代目となられます。
加害責任が確定した国や県、チッソもそれぞれの立場で、これからも、また長い闘いをしていかれるのでしょうか。
公式確認から58年経った今も課題が残されたままです。国は、6万5千人もの申請者が出た特措法を、まだ申請者が出る可能性があるのにあえて締め切りました。その結果、公健法認定申請をする患者が増えている現実があります。また、継続中の裁判や新たに提訴する患者がいます。原田先生は、一貫して住民の水俣病検診を国に提言してこられましたが、今まで一度も実施されていません。
私たちが今立っているこの場所は、かつて魚湧く豊穣の海でした。25ppm以上という高濃度の有機水銀を含んだヘドロと、3000本のドラム缶に詰め込まれた水銀に汚染された魚たちが足元に眠っています。
ヘドロを封じ込めたしきりの鉄板の耐久性は、約50年と言われており既に半分の26年が経過しました。何かに似ていないでしょうか。事故を起こした福島第一原発でも、同じようなことが計画され、原発の廃炉工程は、これから数十年先まで続くと言われています。
福島でも、「己の尊厳と生活をその手に取り戻す」長い長い闘いを第二世代、第三世代、第四世代と世代を超えて続けることになるのでしょうか。これからも被害者は、被害者であるがゆえに人生をかけて「長い闘い」をしていかなければならないのでしょうか。
水俣病事件の教訓とは何でしょうか。私は、未来を担う子どもたちに、「長い闘いがあったが、当事者が真実に生きることで過ちは謝罪され、罪は償われ、責任は果たされた。そして皆が幸せに暮らせるようになった。」と胸を張って言えるような水俣をそして日本を受け渡したいと切に願います。
本日は、水俣病事件の犠牲になられました御霊の前で、私なりの祈りを捧げました。父・川本輝夫もこの地に奉納されています。犠牲になられました全ての患者さんと生命に対し心よりご冥福をお祈りいたします。また、ご参列くださいました皆様方、本日の慰霊式にご尽力くださいました皆様方に心より感謝申し上げます。ありがとうございました。
平成26年5月1日
患者遺族代表 川本愛一郎