死ぬまでに読みたいと思って釣り文学やら森や自然の本がそれなりの数ある(数えた事はない)。
多くの人が晴耕雨読を夢見ているだろう。
僕の場合は晴釣雨読ときどき農作業が夢である。

家族に読書家は居ないので死んだら、何処かの森や川のコーナーのある図書館とか施設に寄付しようと思っている。

無知、無教養な僕が、犯罪者にならず、一応一般市民を演じていられるのは本のおかげだと思う。
それも、文庫本や古本というシステムがあったからだと思う。
だから僕の蔵書も殆どが古本であったりリサイクル本である。
図書館で借りて、どうしても欲しい本をネットで古本として探したりしている。

多くの賢人は「古典を読め」と書かれている。
それは読み継がれだけの価値が歴史の中にあるからだろう。
そして、それらの本は絶版にならない。

だんだんと記憶力が落ちて行く中で、読書メモを書くように努力している。
でも、そのメモした事すら忘れる今日このごろである(笑)

スマホでゲームしたりテレビゲームを楽しいだろうと思う。でも、それらの殆どは古典にはならないだろう。
残り少ない人生、無駄な時間は無い。
でも、蔵書を読み切るだけの時間も無いかもしれない。

ふと思う。

本を読まない人はある意味において幸せなのかもしれない。
知らないし考えないで人生を終える事が出来るのだから。

追記
facebookなんかで気になるのは、政治家やら議員さんという方で本当に読書している方っているのかな?
飯ネタと視察ネタばかりの議員やら、ネットに落ちてる名言集ばかりをひけらかす奴とか。
まあ、きっと議員になる前においらの100倍位の読書をしているんだろうな、だから敢えて何を読んだとか、彼・彼女は著作の中でどう指摘しているとか書かないんだろうね。



「考えるひと」メイルマガジンより
転載


岡崎武志『蔵書の苦しみ』(光文社新書)

 身軽になりたい

 秋風が吹くと、本の整理を思い立ちます。夏の間はさすがに手をつける気にもならなかったものが、肌にひんやりとした空気を感じ始めると、公園の木々と同じように、部屋を少しすっきりさせて、冬に備えなければと思うのです。

 少し前までは春と秋と年に2回、かなり思い切った本の処分をしていました。このところ、ややペースダウンしています。といって、本を買い控えているわけではありませんから、その分、増殖を続ける本の山が書棚の前にいくつも積み上がり、廊下の通路を圧迫し、枕元や“密室”の空間を侵食し、床の可視面積を著しく狭めています。どの本にもそれなりの「存在理由」があり、大切に読み込んだ本には、もちろん愛着があります。まだ目が通せていない本にも、「いずれ読みたい」、「そのうち読みたくなるに違いない」などという思いがこめられています。

〈それでも、やっぱり本は売るべきなのである。スペースやお金の問題だけではない。その時点で、自分に何が必要か、どうしても必要な本かどうかを見極め、新陳代謝をはかる。それが自分を賢くする。蔵書は健全で賢明でなければならない〉

 自分自身に言い聞かせるように、本書の著者が結論づけるのは、この1点に尽きます。それを、こんなに力説せざるを得ないところに、ついつい本を溜め込んでしまう“中毒患者”の素顔が覗きます。たしかに、蔵書の中身を仔細に点検すれば、書棚の奥深くで長い眠りについている本(もはや発掘不可能と思われる埋蔵本)や、お世話になったけれども明らかに用済みとなった本、買った本人すら忘れてしまった本、「読もう」と思っていた気持ちがいつの間にか失せてしまった本、などがたくさん含まれています。

〈ほとんどの場合、溜まり過ぎた本は、増えたことで知的生産としての流通が滞り、人間の身体で言えば、血の巡りが悪くなる。血液サラサラにするためにも、自分のその時点での鮮度を失った本は、一度手放せばいい〉

 しごく真っ当な判断です。ただ、“中毒患者”にとってはきわめて悲壮な決意でも、これがどれほどの一般性を持つかといえば、はなはだ疑わしいと言わざるを得ません。世の中には「本を読まない人」もたくさんいますし、本は「コンテンツ」と割り切って、モノとしての本にいっさい関心を払わない人たちも存在しています。

 27日から始まる読書週間を前にして、読売新聞社が実施した全国世論調査が、この日曜日(10月20日)に出ていました。それによれば、直近の1ヵ月に本を読んだ人は46%(昨年48%)で、本をまったく読まなかった人は53%(同51%)――。読んだ本の冊数は「1冊」18%、「2冊」11%、「3冊」9%で、順位は昨年と同じだった、といいます。

 そんな時代に、本好きが嵩じて「書痴」という病を得、欲望のおもむくままに5千冊、1万冊、2万冊といった大量のストックをわが家に抱え込み、挙句にそれを「蔵書の苦しみ」だなんてぼやくとは、一体どういう了見の持ち主か――。浮き世離れもいいところ。好きなことにおカネを使って、ちょっと贅沢すぎる悩みじゃござんせんか? 聞く人によっては「いい気なものだ」と怒り出すかもしれません。

 この辺のビミョーなところは、著者ももちろん、わきまえています。「我ながらアホやなあ。どないしたらえんやろ」と半ば自分を持てあましながら、しかし、本当にどうにかならないものか、と思い悩んでいるのです。何より、このままではいけない、という焦りが本書を書かせているのです。

〈「本が増え過ぎて困る」というぼやきは、しょせん色事における「惚気(のろけ)」のようなもの……「悪いオンナに引っかかっちゃってねえ」「いやあ、ぜいたくなオンナで金がかかって困るのよ」、あるいは「つまらないオトコでさ、早く別れたいの。どう思う?」など、これらを本気で悩みとして聞く者はいない。そして「苦しみ」は多分に滑稽でもある。救いは、この「滑稽」にある。だから、「蔵書の苦しみ」については、他人に笑われるように話すのがコツだ〉

 各所に至言があり、思わず頷いたり、妙な安堵を覚えたり、どう見ても自分より重症患者の「バカがこんがらがった」(古今亭志ん生)ような“病気自慢”は抱腹絶倒なのですが、聞けば、発売3ヵ月で4刷が決まったといいます。一体誰が読んでいるのか、そちらのほうが不思議です。出版不況、本離れ、先ほどの世論調査でも明らかなように、「この1ヵ月間に本をまったく読まなかった人」が全体の半数を超えるというご時勢です。

 もっとも、本書の翌月に出た『私の本棚』(新潮社)というエッセイ集も版を重ねています。23人の愛書家たちの「本を捨てられない」悩みと戦いを綴った文章。積み上げた本の山が雪崩(なだれ)を起こさないように、体をひねりながら、そっと仕事机に向かうという池上彰さん。聳え立つ本の峰々の重量に耐えかねて、ある日、ドッカーンと2階の床が抜け落ちた井上ひさしさん。世間的には“少数民族”であるにせよ、この筋金入りの本好きには「ただ者ではない」凄みがあります。正真正銘、「つける薬がない」本の虫……。

 ところで、私個人はもう25年ほど同じ古本屋さんにお願いして、自宅まで来ていただきます。ある作家に紹介された信頼できる古本屋さんで、こちらにお任せすれば、いずれ“わが子”は新たな“里親”と出会い、再生するだろうという気になります。「本の価値を知っている店と、そうでない店に売るのとでは、天地の開きがある」というのは、蔵書に限った話ではありません。古道具だって、ペットだって、可愛がってもらえる先に引き取ってもらいたいのが人情です。

 古本屋さんを紹介してくれた方は、ついでに「秘伝」を授けてくれました。曰く、「いかなる理由にせよ、自分の手許に届いてから3ヵ月の間に読まなかった本は、縁がなかったと思って処分して構わない」――。読書家で知られる人の言葉だけに説得力がありました。さすがにそこまで徹底する勇気はありませんでしたが、それくらいの「ふんぎり」がないと、本のメタボ現象は止まらない、という教えだけは肝に銘じたつもりです。

 著者も言うように、何を残し、何を売るかについて、本の山を目の前にして、1冊1冊、「これは要る、これは要らないなどとやっていた日には、時間がいくらあっても足り」ません。処分の決め手は「えいやっ!」に尽きるのです。

〈最終的には、燃えたと思えば気がすむ、という心境になれるかどうか……四十代では、まだ無理だったかもしれない。五十半ばという年齢が、この心境に至る後押しをしてくれた。もう、そう長くは生きられないんだぞ、と〉

 たしかに年齢という要素も重要です。

〈二〇一三年の春に五十六歳になった。ヒトラーも双葉山も高田渡も栗本薫もこの年齢で亡くなっている。丼飯をお代わりする年でも、駅の階段を一段飛ばしで駆け上がる年でもない。知的欲求の見栄も、だいぶ衰えた。蔵書の精選と凝縮を、そろそろ心掛ける年ではないか〉

 世の中の「断捨離」ブームとはまた別に、人生の身じまい(「終活」)が意識にのぼってくる年まわりです。一方で、かつて憧れた「明窓浄机(めいそうじょうき)」――明るい窓、清潔な部屋に机があって、そこで読みもの、書きものに集中する、という書斎の夢がよみがえります。手を伸ばせば何でも用が足りてしまう4畳半下宿生活への郷愁も募ります。いずれにせよ、重荷となった蔵書を捨て去って、身軽になるしかありません。

「書棚には、五百冊ばかりの本があれば、それで十分というのが、吉田さんの口癖だった」(篠田一士『読書の楽しみ』構想社)

 ここでいう「吉田さん」とは、英文学の翻訳、評論、小説、エッセイの分野で活躍し、いまだに根強いファンを持つ吉田健一氏です。

〈本は五百冊あればというのは、ズボラか、不勉強かとは逆に、よほどの禁欲、断念のはてに実現するもので、これを実行するには、並大抵の精神のエネルギーではかなうことではない。一日に三冊もの本を読む人間を、世間では読書家というらしいが、本当のところをいえば、三度、四度と読みかえすことができる本を、一冊でも多くもっているひとこそ、言葉の正しい意味での読書家である〉(前掲書)

 著者も「夢見るのはそういう蔵書だ」と語ります。ただし、「もの書きなんて、辛気くさい仕事を辞められたら」、そして「そのあとも、経済的に悠々と暮らせたら」という留保条件がつきますが……。

 せめてもの抵抗に、「蔵書処分の最終手段」として、提案されているのが「一人古本市」です。私も存じ上げているHさん。1万冊の蔵書を一挙に放出した販売イベントで、驚異の消化率95%を達成したつわものです。それに倣って昨年7月に、国立(くにたち)にできた民家ギャラリーのプレ・オープン・イベントとして、「岡崎武志一人古本市」が挙行されました。その詳細な体験報告は、悩める同好同士にとって貴重な情報です。

「潔さ」にはお手本があります。しばしば思い浮かべる「教訓」を紹介しておきます――。

〈「身死して財(たから)残ることは智者のせざる処(ところ)なり……」と、私の敬愛する、なんでもかんでもいと見苦しのオッサン、吉田兼好の『徒然草』にもあるではないか。物への執着は捨てて、物にまつわる思い出だけを胸の底に積み重ねておくことにしよう。思い出は、何時でも何処(どこ)でも取りだして懐かしむことができるし、泥棒に持っていかれる心配もない……〉(高峰秀子『にんげんのおへそ』、新潮文庫)

「整理整頓も芸のうち」と言う高峰さんが、「人生の店じまい」について夫婦で考えはじめたのは、40代の終わり頃だったといいます。そこからの思い切りの良さには舌を巻くばかりですが、その決断力、徹底した整理整頓の要諦は、「根気と勇気と執念」だとか。

 ちなみに週末26日から11月4日まで、神田神保町で恒例の「第54回神田古本まつり」が始まります。ここで買い漁らないことが、もうひとつの「教訓」。

「本を買ふそばへ古本売りに来る」 雉子郎

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)