宮沢賢治の青春 菅原千恵子 角川文庫 1997
初出は1994年宝島社
副題:ただ一人の友、保坂阪嘉内を巡って
著者の菅原さんは2010年に亡くなったとのの情報がありました。(1949-2010)
本書は保阪嘉内の存在無くして賢治の作品はなかったとする論考だろう。そして非常に説得力がある。残念なことは賢治から嘉内への手紙は多く残されているが、嘉内から賢治宛ての手紙がないということだろう。手紙の中に見られる内容はまさに心友とも言われる関係性を表している、そして決別後の賢治の作品群に見られる青春時代の想い出や文脈の数々がまさに嘉内と過ごした盛岡時代、そして手紙でのやり取りの時代を描写しているのだと思う。そして共に幸せとは何かを考え、利他的に生きる道を探し求めて苦しみぬいた道程が命を削ったのかもしれない。
そして、第8章で「銀河鉄道の夜」は誰のために書かれたのか、まさに本書はこの賞を書くためにあるのだろう。銀河鉄道が、いかに人々の幸いについて多くを語り、問題としているのかと指摘している。是非読んでみていただきたい。
保阪嘉内
明治29年10月18日(1896年) 山梨県北巨摩郡駒井村に地主の長男として生まれる。
昭和12年2月8日(1937年) 41歳 逝去。
宮沢賢治
明治29年8月27日(1896年) 岩手県稗貫郡花巻町にて生まれる
昭和8年9月21日(1933年) 37歳 逝去
僕は甲府中学校長をされた大島正建氏(1859-1938)札幌農学校1期生でクラーク博士の教えを受けた)に興味があって少し調べている。その大島門下には石橋湛山(1884-1973)がいたりするのであるが保坂嘉内もこの大島校長に教えを受けている。
そして保阪は甲府中学時代にハレー彗星のスケッチを残していて、宮沢にも語っていたのではないかと。
さて、宮沢賢治との出会いは東北大学札幌農学科大学受験に失敗した翌年(1915年)に盛岡高等農林学校に入学してである。そして自啓寮に入り一級上の賢治に会う。
嘉内がキリスト教に深い関心をもったのは最初の受験に失敗した浪人時代であると記されているが(p29)少なくとも甲府中学時代に大島校長から多くのキリスト教の教えも受けていたと思われる。そして賢治もキリスト教に接近したのではないだろうか。
杉、気圏、犬、電信バシラ(電しんばしら)、青い目、空の椀、どろの木などの嘉内と賢治だけに通じるであろうテキスト
春の修羅の中に生きる保阪嘉内 小岩井農場 嘉内と賢治が訪れていた可能性
特定の誰かだけに見て貰いために出したと思われる詩集
晩年賢治は黒沢尻高等女学校の新井校長に「どろの木を育てから取りに来て欲しい」と話し、現在もその内の一本が大樹となって残っている(現北上翔南高等学校)。
『甲斐国誌』には「風ノ三郎カ岳」が記載されている。
やまなし=山梨
八ヶ岳も風の又三郎に登場する。
銀河=ハレー彗星
韮崎に家があるおやじとしては嬉しいのである。そして嘉内が母校の先輩でもあり。
第1章 賢治と保阪嘉内の出会い
第2章 友愛のステージ『アザリア』
第3章 激しく揺れた手紙の青春
第4章 訣別のあとで
第5章 『春と修羅』の中に生きる保阪嘉内
第6章 教師から農民へ
第7章 晩年
第8章 『銀河鉄道の夜』は誰のために書かれたのか
初出は1994年宝島社
副題:ただ一人の友、保
著者の菅原さんは2010年に亡くなったとのの情報がありました。(1949-2010)
本書は保阪嘉内の存在無くして賢治の作品はなかったとする論考だろう。そして非常に説得力がある。残念なことは賢治から嘉内への手紙は多く残されているが、嘉内から賢治宛ての手紙がないということだろう。手紙の中に見られる内容はまさに心友とも言われる関係性を表している、そして決別後の賢治の作品群に見られる青春時代の想い出や文脈の数々がまさに嘉内と過ごした盛岡時代、そして手紙でのやり取りの時代を描写しているのだと思う。そして共に幸せとは何かを考え、利他的に生きる道を探し求めて苦しみぬいた道程が命を削ったのかもしれない。
そして、第8章で「銀河鉄道の夜」は誰のために書かれたのか、まさに本書はこの賞を書くためにあるのだろう。銀河鉄道が、いかに人々の幸いについて多くを語り、問題としているのかと指摘している。是非読んでみていただきたい。
保阪嘉内
明治29年10月18日(1896年) 山梨県北巨摩郡駒井村に地主の長男として生まれる。
昭和12年2月8日(1937年) 41歳 逝去。
宮沢賢治
明治29年8月27日(1896年) 岩手県稗貫郡花巻町にて生まれる
昭和8年9月21日(1933年) 37歳 逝去
僕は甲府中学校長をされた大島正建氏(1859-1938)札幌農学校1期生でクラーク博士の教えを受けた)に興味があって少し調べている。その大島門下には石橋湛山(1884-1973)がいたりするのであるが保坂嘉内もこの大島校長に教えを受けている。
そして保阪は甲府中学時代にハレー彗星のスケッチを残していて、宮沢にも語っていたのではないかと。
さて、宮沢賢治との出会いは東北大学札幌農学科大学受験に失敗した翌年(1915年)に盛岡高等農林学校に入学してである。そして自啓寮に入り一級上の賢治に会う。
嘉内がキリスト教に深い関心をもったのは最初の受験に失敗した浪人時代であると記されているが(p29)少なくとも甲府中学時代に大島校長から多くのキリスト教の教えも受けていたと思われる。そして賢治もキリスト教に接近したのではないだろうか。
杉、気圏、犬、電信バシラ(電しんばしら)、青い目、空の椀、どろの木などの嘉内と賢治だけに通じるであろうテキスト
春の修羅の中に生きる保阪嘉内 小岩井農場 嘉内と賢治が訪れていた可能性
特定の誰かだけに見て貰いために出したと思われる詩集
晩年賢治は黒沢尻高等女学校の新井校長に「どろの木を育てから取りに来て欲しい」と話し、現在もその内の一本が大樹となって残っている(現北上翔南高等学校)。
『甲斐国誌』には「風ノ三郎カ岳」が記載されている。
やまなし=山梨
八ヶ岳も風の又三郎に登場する。
銀河=ハレー彗星
韮崎に家があるおやじとしては嬉しいのである。そして嘉内が母校の先輩でもあり。
第1章 賢治と保阪嘉内の出会い
第2章 友愛のステージ『アザリア』
第3章 激しく揺れた手紙の青春
第4章 訣別のあとで
第5章 『春と修羅』の中に生きる保阪嘉内
第6章 教師から農民へ
第7章 晩年
第8章 『銀河鉄道の夜』は誰のために書かれたのか