筆者からの献本御礼(だからと言って読書メモは左右されない(笑) お値段高いです。キッパリ。
「川は誰のものか」を釣り人として読み、コモンズなんて言う横文字に右往左往しないローカルな思想や生き方がある事を認識した(最近、この本をもとにした独立系の記録映画も作られている)。なぜか、この本を読んだ時に想い出したのは「山里の釣りから」内山節(1950-)だった。同じ匂いが文脈から漂っていた。そんな事を考えながら本書を読みだしたのである。
民俗学という学問がある事は宮本常一(1907 - 1981)の種々な本に触れて知ってはいたし、もちろん柳田國男(1875 – 1962)の存在からも存じていた。菅氏(1963-)の詳細な業績は知らないし民俗学や歴史学と言った分野にも全く疎いので的外れなメモになるかとは思うがお許し願いたい。
はじめに、でまず頭を殴られる。被災地での学者の横柄さを東日本大震災での多くの被災者の声として指摘している(ある意味、菅氏自身の第一部で綴られる経験にリンクする)。私自身もそんな被災者の声をネット上に散見される事を知っている。果たして学問を行う学者とは何か?が問われているのだろう。そして自腹でも復興支援に参加した学者が果たしてどれだけいるのか?
さて一部は菅氏自身のフィールである新潟県小千谷での牛の角突きのフィールド調査(野外調査、自分自身も牛持ちとなる。またこの角突きは宮本常一が観光資源となると1970年に再発見とある)を2004年新潟中越地震の前後で綴っている。そこに調査される側と調査する側の論理や価値観、そして自身と調査地住民との係り(力関係の不均衡、非対称性という構造的問題)を吐露し、野(の)の学問の本質を考える。
かつて「野の学問」として、人びとの生活に近いところから立ち上がり、人びとの日常生活に寄り添うような学問世界を構築するために創造された「学問」=民俗学が、いつのまにか、そのような世界を単なるフィールドと見なし、突き放すような距離感をもつようになっていることに私は愕然とし、また失望したのである。そこには地域に生きる人々の現状に対する想像力が欠如しており、同情といった程度の普通におこるはずの情動すら生みだされなかったのである。(学会で小千谷等の被災地への支援を要請に対して賛同が得られなかった)p61
この嘆き、あるいは憤りを他の学問分野の人々も多く感じたのではないだろうか?(感じて欲しいが)特に3.11の状況を学者と言われる人々(権威と言われる大学や研究所の人々)は?
ここに「野」から離れた閉鎖空間としての学問が現在あるのではと菅氏は指摘する。
そして「一般的」な事を出来ても「実践的」な技術を持っていなかったことを痛感したと。
そこから、彼は新たな実践の中から研究手法(録音し、メモを取る調査から離れ)を生みだしていくことになる。
(確か、宮本常一も聞きとりの場で毎回ノートを取った訳でなく、宿に戻ってから朝までかけて聞き取った言葉を綴ったと書かれていたように記憶している、そして地場産業向上や離島振興に自分の役割を見つけていったのだろう)
第2部からは結構素人な私には難しい。民俗学の歴史、欧米での歴史等々が語られる。
柳田民俗学の中央集権化による権威付け? 権威と権力による自由な議論と知的営為の抑制。1950年の文化財保護法の役割とアカデミック民俗学。1970-1980年代、日本民俗学会の学問的空洞化。アカデミズム化の過程で「野」性が奪われてきた。
ドイツ民俗学における御用学問として国家政策に寄与(ナチス時代)
日本、文化政策への安易な関与vs政治性批判のみ この二つの民俗学研究者
アメリカ民俗学、実践的で社会貢献を目指す公共民俗学に積極的
日本民俗学の特徴、東京都の菅です、と自己紹介する通例
第3部はいかに「野」の学問を拡大していくかであろうか。
水俣における地元学や東北の結城らによる地元学、宇根の百姓学、赤坂の東北学、足尾鉱山の谷中学、高木仁三郎の市民科学。
「あたりまえ」を疑う態度。野を装う危険性。公共部門の顕彰制度という権威。
里山という表現と、それへの過剰な価値付与の問題。(政治的な動きとして)
おわりに
共感し感応する研究者像
「終わりのない関わりのもと、定形化せず、規範化せず、マニュアル化せず、汎用化せず、手段かせず、さらにその行為自体をアプリオリに目的化しない営為」
さて、読み終えて感じたのは、木村英造氏が主宰した淡水魚保護協会でありその機関誌「淡水魚保護」である。釣り人、研究者、行政等が一緒になって釣り場の環境、魚の遺伝的解析、自然保護問題等々を分け隔てなく議論の場としていた。まさに「野」の機関誌であったように思う。そこから多くの学術的知見も得られたし環境破壊から免れた地域もあったのだ。
こんな目次になっている
第1部 実践としての学問の試み―私が闘牛を始めた理由
フィールドに「入る」
地震に襲われたフィールド
転回する研究者のポジショナリティ
実践におけるポリティクス―震災後の「大文字の学知」
寄り添う「学知」―生活者のなかへ
第2部 学問のあり方を問い直す
「野の学問」の誕生とその衰退
分断された知識生産の担い手たち
「公共」に開かれていく学問
アカデミズムと社会実践の闘争史―アメリカにおける公共民俗学
知の囲い込みからの脱却―モード2の知識生産の様式
第3部 「新しい野の学問」の可能性と課題
「新しい野の学問」時代の到来
「新しい野の学問」に対応する研究者
これからの学問の挑戦―「新しい野の学問」との交わり方

「新しい野の学問」の時代へ―知識生産と社会実践をつなぐために [単行本]
「川は誰のものか」を釣り人として読み、コモンズなんて言う横文字に右往左往しないローカルな思想や生き方がある事を認識した(最近、この本をもとにした独立系の記録映画も作られている)。なぜか、この本を読んだ時に想い出したのは「山里の釣りから」内山節(1950-)だった。同じ匂いが文脈から漂っていた。そんな事を考えながら本書を読みだしたのである。
民俗学という学問がある事は宮本常一(1907 - 1981)の種々な本に触れて知ってはいたし、もちろん柳田國男(1875 – 1962)の存在からも存じていた。菅氏(1963-)の詳細な業績は知らないし民俗学や歴史学と言った分野にも全く疎いので的外れなメモになるかとは思うがお許し願いたい。
はじめに、でまず頭を殴られる。被災地での学者の横柄さを東日本大震災での多くの被災者の声として指摘している(ある意味、菅氏自身の第一部で綴られる経験にリンクする)。私自身もそんな被災者の声をネット上に散見される事を知っている。果たして学問を行う学者とは何か?が問われているのだろう。そして自腹でも復興支援に参加した学者が果たしてどれだけいるのか?
さて一部は菅氏自身のフィールである新潟県小千谷での牛の角突きのフィールド調査(野外調査、自分自身も牛持ちとなる。またこの角突きは宮本常一が観光資源となると1970年に再発見とある)を2004年新潟中越地震の前後で綴っている。そこに調査される側と調査する側の論理や価値観、そして自身と調査地住民との係り(力関係の不均衡、非対称性という構造的問題)を吐露し、野(の)の学問の本質を考える。
かつて「野の学問」として、人びとの生活に近いところから立ち上がり、人びとの日常生活に寄り添うような学問世界を構築するために創造された「学問」=民俗学が、いつのまにか、そのような世界を単なるフィールドと見なし、突き放すような距離感をもつようになっていることに私は愕然とし、また失望したのである。そこには地域に生きる人々の現状に対する想像力が欠如しており、同情といった程度の普通におこるはずの情動すら生みだされなかったのである。(学会で小千谷等の被災地への支援を要請に対して賛同が得られなかった)p61
この嘆き、あるいは憤りを他の学問分野の人々も多く感じたのではないだろうか?(感じて欲しいが)特に3.11の状況を学者と言われる人々(権威と言われる大学や研究所の人々)は?
ここに「野」から離れた閉鎖空間としての学問が現在あるのではと菅氏は指摘する。
そして「一般的」な事を出来ても「実践的」な技術を持っていなかったことを痛感したと。
そこから、彼は新たな実践の中から研究手法(録音し、メモを取る調査から離れ)を生みだしていくことになる。
(確か、宮本常一も聞きとりの場で毎回ノートを取った訳でなく、宿に戻ってから朝までかけて聞き取った言葉を綴ったと書かれていたように記憶している、そして地場産業向上や離島振興に自分の役割を見つけていったのだろう)
第2部からは結構素人な私には難しい。民俗学の歴史、欧米での歴史等々が語られる。
柳田民俗学の中央集権化による権威付け? 権威と権力による自由な議論と知的営為の抑制。1950年の文化財保護法の役割とアカデミック民俗学。1970-1980年代、日本民俗学会の学問的空洞化。アカデミズム化の過程で「野」性が奪われてきた。
ドイツ民俗学における御用学問として国家政策に寄与(ナチス時代)
日本、文化政策への安易な関与vs政治性批判のみ この二つの民俗学研究者
アメリカ民俗学、実践的で社会貢献を目指す公共民俗学に積極的
日本民俗学の特徴、東京都の菅です、と自己紹介する通例
第3部はいかに「野」の学問を拡大していくかであろうか。
水俣における地元学や東北の結城らによる地元学、宇根の百姓学、赤坂の東北学、足尾鉱山の谷中学、高木仁三郎の市民科学。
「あたりまえ」を疑う態度。野を装う危険性。公共部門の顕彰制度という権威。
里山という表現と、それへの過剰な価値付与の問題。(政治的な動きとして)
おわりに
共感し感応する研究者像
「終わりのない関わりのもと、定形化せず、規範化せず、マニュアル化せず、汎用化せず、手段かせず、さらにその行為自体をアプリオリに目的化しない営為」
さて、読み終えて感じたのは、木村英造氏が主宰した淡水魚保護協会でありその機関誌「淡水魚保護」である。釣り人、研究者、行政等が一緒になって釣り場の環境、魚の遺伝的解析、自然保護問題等々を分け隔てなく議論の場としていた。まさに「野」の機関誌であったように思う。そこから多くの学術的知見も得られたし環境破壊から免れた地域もあったのだ。
こんな目次になっている
第1部 実践としての学問の試み―私が闘牛を始めた理由
フィールドに「入る」
地震に襲われたフィールド
転回する研究者のポジショナリティ
実践におけるポリティクス―震災後の「大文字の学知」
寄り添う「学知」―生活者のなかへ
第2部 学問のあり方を問い直す
「野の学問」の誕生とその衰退
分断された知識生産の担い手たち
「公共」に開かれていく学問
アカデミズムと社会実践の闘争史―アメリカにおける公共民俗学
知の囲い込みからの脱却―モード2の知識生産の様式
第3部 「新しい野の学問」の可能性と課題
「新しい野の学問」時代の到来
「新しい野の学問」に対応する研究者
これからの学問の挑戦―「新しい野の学問」との交わり方

「新しい野の学問」の時代へ―知識生産と社会実践をつなぐために [単行本]
野の学問の精神てどこに行ったのという感じです。
また文化財保護についても、莫大な予算を費やして・・・。
とくに民俗文化財なんて、支える人あってのものなのに、支える人たちの生活や福祉をおざなりにして何が保護なんでしょうか???
野の学問は研究室でやるものではないし、生活を踏み荒らす者でもない。野の学問の精神を思い起こして、本当に意味のあることをやってほしい。