2012年最後のブログは好きな本で終わりたいと思います。
原発問題、経済問題も良いのだけれど、やはり森や自然の本が良いです。
2013年が皆様に素晴らしい年でありますように心よりお祈りいたします。
言い残したい森の話 四手井綱英 人文書院 1993
四手井綱英(1911-2009)先生の森に対する想い入れ集大成であり、人性論であろうか。もちろん1993年以降にも著作があるが。亡くなられて既に3年、亡くなられた直ぐ後に読了した記憶がある。改めて付箋紙を付けた所を中心に読書メモとしたい。
経歴等はネットで検索できる便利な世の中になったので、省くが子供時代から大学時代の仲間や先輩の存在が大きい、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫等の先輩。そして2浪して入った三高、その後京大の農学部へ進む。卒業後は秋田営林局、1983年以降 2回の招集。敗戦末期に空襲を受けて被爆し九死に一生を得たと。そのことが、死を恐れなくなり、余生は他人に気兼ねせず、自己に忠実に生きようと心掛けられるようになったと。(侵略戦争に参加した負の時代だったと記述されています)
その後、母校に戻り1954年より京大農学部教授。造林学を森林生態学に変更した。
退官後はモンキーセンター所長、京都府立大学学長等を歴任。
さて備忘録的メモ
日本の先生は専攻がなんであれ、生物に対する関心が薄すぎるのではないか。(モンキーセンター所長時代に子供を引率する先生の子供に対する態度にかんして)
子供が生死の区別を知ることが、自然保護の第一歩だと考える。p86
大阪のある区が木登り公園を作った。落ちて怪我したらだれが責任とるんだという苦情が出て、結局すべての木を登れないようにしたそうだ。(あまりに馬鹿げていますね)
水島工業団地の大気汚染。県が認めない状況で学生に同行して調査、風下は梅の実がならない、風上の梅は実る。工業団地の平均気温の上昇等から公害を県が認知。
昭和50年代(退官後)、林野庁が広域林業圏を造成する目的で、大規模林業計画。青秋林道同様に杜撰な山形の縦貫林道の欠点を朝日の論壇に国費の浪費と指摘、大蔵省の目に泊り中止。(予算を握る大蔵省を動かす事が成功のカギだったと)この時代、多くのブナ美林が消えていった。
係った自然保護や環境保存の話で成功率は50%を切るかもかもしれない。
林業と研究者の態度、無関心派の研究者が常に多数存在する。動植物の生態学仲間でも積極的に自然保護運動に飛び込む人より、我関せずの人の方が多い。大学の林学科の教授、助教授で、林野庁の林業行政にたえず批判の目を向けているひとはほとんどいない。むしろ追随者の方が多い。(原発問題と同じ構造なんですね)
皆伐人工造林の問題。特に九州で広く行われているクローンに近いスギ品種の人工林では、私たちが共倒れ型の林と名付けているように、森林を公正する各個体の大きさに殆ど差がないので、除間伐して個体間の隙間を広げてやらないかぎり、一様に細長く生長してしまい、強風や豪雨にやられると集団的に倒伏してしまう。大きさの揃った木材が生産される特質は、他方で天然災害に著しく弱いので、災害国日本ではよほど注意いなければならないだろう。p140
育林技術をめぐって。大阪営林局長、スギ苗をすべてサシキ苗にし、実生苗の養生を全廃。その後おおきな問題に。(詳細略)
精英樹をどう考えるか。遺伝的なのか物理的(根の癒着等)なのか?
施肥林業の問題点。農業的林業の限界?手抜き林業。
水俣の照葉樹林で鋸や鍬やスコップで調査をしていたのを見た某新聞社科学記者「これが科学研究かね」と驚いたと言ったそうだ。今まで私は白衣も着ず、試験管を持ったことも滅多になかった。その代わり、山靴と作業着には一生なじんできた。だからと言って、自然科学者としての自負心を失ったこともない。中略 なんでも良いから手当たり次第に雑学を吸収するのが、生態学者の糧だと思うのは私だけだろうか。p173
私が最後に強く主張したいのは、森林の直接、間接効用として、今まで揚げられていたものまでが、あまりに自然科学的な発想に過多よりすぎていることだ。自然とか環境にもっと人の心、感性、情緒に訴えるものが多い。森林は単に物質的な資源として対応し、経済効果のみを追求する対象でないということだ。古来人は自然を恐れ敬い、さらに神として尊び、そこから多大な心のやすらぎを得てきた。現在もう一度改めてこれらの面を認識しなおす時点にさしかかっているのではなかろうか。
あとがきで四手井綱英先生は書く 北から南までのすべての森をみた先生は 「こうして大雑把にあげていくと、私は森林としてブナ林が一番好きである」と。そして孫の自然教育はまだしばらく続けられるだろうと。
言い残したい森の話
原発問題、経済問題も良いのだけれど、やはり森や自然の本が良いです。
2013年が皆様に素晴らしい年でありますように心よりお祈りいたします。
言い残したい森の話 四手井綱英 人文書院 1993
四手井綱英(1911-2009)先生の森に対する想い入れ集大成であり、人性論であろうか。もちろん1993年以降にも著作があるが。亡くなられて既に3年、亡くなられた直ぐ後に読了した記憶がある。改めて付箋紙を付けた所を中心に読書メモとしたい。
経歴等はネットで検索できる便利な世の中になったので、省くが子供時代から大学時代の仲間や先輩の存在が大きい、今西錦司、西堀栄三郎、桑原武夫等の先輩。そして2浪して入った三高、その後京大の農学部へ進む。卒業後は秋田営林局、1983年以降 2回の招集。敗戦末期に空襲を受けて被爆し九死に一生を得たと。そのことが、死を恐れなくなり、余生は他人に気兼ねせず、自己に忠実に生きようと心掛けられるようになったと。(侵略戦争に参加した負の時代だったと記述されています)
その後、母校に戻り1954年より京大農学部教授。造林学を森林生態学に変更した。
退官後はモンキーセンター所長、京都府立大学学長等を歴任。
さて備忘録的メモ
日本の先生は専攻がなんであれ、生物に対する関心が薄すぎるのではないか。(モンキーセンター所長時代に子供を引率する先生の子供に対する態度にかんして)
子供が生死の区別を知ることが、自然保護の第一歩だと考える。p86
大阪のある区が木登り公園を作った。落ちて怪我したらだれが責任とるんだという苦情が出て、結局すべての木を登れないようにしたそうだ。(あまりに馬鹿げていますね)
水島工業団地の大気汚染。県が認めない状況で学生に同行して調査、風下は梅の実がならない、風上の梅は実る。工業団地の平均気温の上昇等から公害を県が認知。
昭和50年代(退官後)、林野庁が広域林業圏を造成する目的で、大規模林業計画。青秋林道同様に杜撰な山形の縦貫林道の欠点を朝日の論壇に国費の浪費と指摘、大蔵省の目に泊り中止。(予算を握る大蔵省を動かす事が成功のカギだったと)この時代、多くのブナ美林が消えていった。
係った自然保護や環境保存の話で成功率は50%を切るかもかもしれない。
林業と研究者の態度、無関心派の研究者が常に多数存在する。動植物の生態学仲間でも積極的に自然保護運動に飛び込む人より、我関せずの人の方が多い。大学の林学科の教授、助教授で、林野庁の林業行政にたえず批判の目を向けているひとはほとんどいない。むしろ追随者の方が多い。(原発問題と同じ構造なんですね)
皆伐人工造林の問題。特に九州で広く行われているクローンに近いスギ品種の人工林では、私たちが共倒れ型の林と名付けているように、森林を公正する各個体の大きさに殆ど差がないので、除間伐して個体間の隙間を広げてやらないかぎり、一様に細長く生長してしまい、強風や豪雨にやられると集団的に倒伏してしまう。大きさの揃った木材が生産される特質は、他方で天然災害に著しく弱いので、災害国日本ではよほど注意いなければならないだろう。p140
育林技術をめぐって。大阪営林局長、スギ苗をすべてサシキ苗にし、実生苗の養生を全廃。その後おおきな問題に。(詳細略)
精英樹をどう考えるか。遺伝的なのか物理的(根の癒着等)なのか?
施肥林業の問題点。農業的林業の限界?手抜き林業。
水俣の照葉樹林で鋸や鍬やスコップで調査をしていたのを見た某新聞社科学記者「これが科学研究かね」と驚いたと言ったそうだ。今まで私は白衣も着ず、試験管を持ったことも滅多になかった。その代わり、山靴と作業着には一生なじんできた。だからと言って、自然科学者としての自負心を失ったこともない。中略 なんでも良いから手当たり次第に雑学を吸収するのが、生態学者の糧だと思うのは私だけだろうか。p173
私が最後に強く主張したいのは、森林の直接、間接効用として、今まで揚げられていたものまでが、あまりに自然科学的な発想に過多よりすぎていることだ。自然とか環境にもっと人の心、感性、情緒に訴えるものが多い。森林は単に物質的な資源として対応し、経済効果のみを追求する対象でないということだ。古来人は自然を恐れ敬い、さらに神として尊び、そこから多大な心のやすらぎを得てきた。現在もう一度改めてこれらの面を認識しなおす時点にさしかかっているのではなかろうか。
あとがきで四手井綱英先生は書く 北から南までのすべての森をみた先生は 「こうして大雑把にあげていくと、私は森林としてブナ林が一番好きである」と。そして孫の自然教育はまだしばらく続けられるだろうと。
言い残したい森の話