東大教授・島薗進さんインタビュー(1)死を迎える人の痛みにどう応えるか : こころ元気塾 : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞)
ちょうど読んでいた本
最初は簡単で易しく読めるけど、だんだん難しくなるんです。(涙
日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)
個人的にはご講演を聞いたり本を読むだけなんですが、もっとも期待している知識人の方です。
この記事の経歴には書かれていませんが、実は理3(医学部)に入学したが、哲学に変更したと思います。
以下記事
私たちは死にどう向き合い、生きてゆけばよいのか。死と生を巡る様々な問題を学ぶ「死生学」が注目を集めている。宗教学が専門で、日本の死生学をリードしてきた東大教授の島薗進さんに話を聞いた。(針原陽子)
島薗進(しまぞの・すすむ)
1948年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。専門は近代日本宗教史、死生学。2002年、同大文学部の死生学のプロジェクトに関わった。著書・編著に「死生学1」「日本人の死生観を読む」など。
――死生学とは、どういう学問なのでしょうか。
「英語で言うと『デス・スタディーズ』で、米英では死にまつわる事象が中心です。ホスピス運動や、死別で苦しむ人に対するグリーフケア、安楽死など様々な問題が含まれます。日本では、もっと死を総合的に扱ったほうがいいのではないかという考えがあり、出生前診断など誕生に関わることなど幅広い問題が対象になります」
――なぜアメリカなどとは違うのでしょうか。
「アメリカなどは、キリスト教が文化のベースにあります。例えば自殺は、キリスト教では『してはいけないもの』。なぜしてはいけないのか、ということを考えることはあまりしないのです。キリスト教がカバーする部分は、デス・スタディーでは基本的に扱われません。しかし日本やアジア、そのほかキリスト教圏以外の国では、『なぜ自殺をしてはいけないのか』から考えなければなりません。おのずと、文化の違いが内容にも反映します」
――具体的にはどういう内容になりますか?
「緩和ケアでいえば、体の痛みを取る技術は医学で学べます。しかし、死を迎える人の心の痛みにどうやって対応すべきなのかはわからない。それを学ぶのが死生学です」
――なぜいま、死生学が必要とされるのでしょう。
「『命とは何か』『どういう生き方が健康であり、いい生き方なのか』『死にゆくことにはどういう意味があるのか』『どういう死に方をしたいのか』という問いが根本にあると思います。その一方で、医療が発達し、科学がひとの人生に介入することが増えている。例えば、昔は、口から食べられなくなれば亡くなったのが、今は中心静脈栄養があり、胃ろうがあって、口から食べられなくなっても、命を永らえることができます。また、誕生ということで言えば、誕生時の最少体重は500グラム未満とか、どんどん小さくなっています。しかし、それだけ小さいと、障害を持つことも多い。科学の介入が増えるに従って、人の命の価値とか意義とかいうことを、あらためて考え直すことが必要になります。こうしたことの重要性に気づく人が増えたため、医師や看護職、介護職等で死生学に対する関心が高まっているのだと思います」(続く)
(2)
――だとすれば、死生学は、医療・介護など専門職が学ぶべきものなのでしょうか。
「医療現場の人が学ぶことももちろん重要ですが、専門職以外の人たちにも学んでほしいと思います」
――どういうことでしょう。
「かつての日本では、自宅で家族に見守られて死を迎えることが多かった。病院で亡くなるにしても、家族が病院に泊まり込んで看取ったものです。そうすることで、家族が考える『いい死に方』が、ある程度自然に実現されていただろうと思います。しかし、病院が完全看護の体制になって、家族が看病をしなくなり、『死』を迎えることが、家族ではなく、医療が主導して行われるようになった。また、以前は、葬式や法事、お盆の際などにも、家族や親族から死について学びました。『死とはこういうもの』『死の儀式はこうするもの』といったことです。今でも、日本の死を巡る儀礼は、種類も多く、時間をかけてやられています。しかし、お墓参りには行っても、それを宗教儀礼と自覚しておらず、教義とつながっているとも考えない。手を合わせても、何と唱えるべきなのか、親も教えない、子どもも教わらない、だから伝わらない。このように文化が廃れた結果、現代人は、死について自分なりにつかみ直さなければならなくなってきたのです」
「2008年に『おくりびと』という、亡くなった人をきれいにして棺に入れる『納棺師』を主人公にした映画が大ヒットし、その少し前には、死者は風になって生者を見守っているという内容の『千の風になって』が流行しました。新しい『死の文化』を構築するための何かが求められているためではないでしょうか」
――一「おくりびと」は、同じ死の儀礼を扱った、伊丹十三監督の「お葬式」とは、まったく様子が違いますね。
「『お葬式』は1984年公開で、初めて葬式を出すことになった、儀礼に慣れていない一族の戸惑いをコミカルに描いていますが、当時の濃密な家族・親族関係がよく表れています。一方の『おくりびと』では、主人公と妻は、か細い絆でつながっているものの、その他の主な登場人物はいずれも単身者です。主人公は、幼かった自分と母を捨てた父親が亡くなってから和解を果たしますが、その絆はいかにも弱い」
「かつては、おじやおば、いとこなど、たくさんの絆の中に、親子などの太い絆があった。ところが今は、ごく少ない絆に、すべてがかかっている。つまり、親子や配偶者といった絆が切れるということは、喪失が大きくなってしまうんですね。その孤独に、たった一人で向き合わなければならない。そういうこということも、『おくりびと』のような映画ができた背景にあるのではないでしょうか」(続く)
島薗進(しまぞの・すすむ)
1948年、東京都生まれ。東京大学文学部卒。専門は近代日本宗教史、死生学。2002年、同大文学部の死生学のプロジェクトに関わった。著書・編著に「死生学1」「日本人の死生観を読む」など。
(2012年12月21日 読売新聞)
(3)
――一般の人が死生学を学ぶことで、例えば延命治療について、家族が医師に「もう結構です」と言えるようになりますか。
「その判断の前提は『患者本人の意思』であると思います。『いつまでも一緒にいたい』という気持ちが、患者と家族、両方の側にあるのは自然なことですが、患者が高齢だったり、闘病生活が長くなっていったりすれば、その思いはおのずと変わっていき、ある時期に『もうお別れの時なんだな』とお互いに納得できる。命を延ばす様々な治療が、本当に本人のためになるのかどうかは、医療だけでは判断できません。だからこそ、家族が、その人らしい死のためにどうするべきかを、きちんと考える力を持つことが必要だと思います」
――自分自身や、家族の死をどう受け止めていいのかわからない人たちに対し、死生学は答えを示すことができるのでしょうか。
「死生学を学んだからといって、死の恐怖や、死別の苦しみから逃れられるわけではありません。でも、全く知らないよりはずっとよいと思います。私は数年前に母を亡くしましたが、死生学に携わっていたおかげで、人工栄養にするかどうかとか、どこまで医療を施すべきかという問題に対して、自分なりの判断をすることができました。知人の紹介でとても良い訪問看護師に出会い、母は姉の家で穏やかに死ぬことができました」
「順天堂大病院の緩和ケアセンターに奥野滋子先生という方がいて、長い間、多くの患者さんの最期に立ち会っているんですね。奥野先生は、患者が息を引き取る時に、後ろから抱き留めてあげるということを勧めています。キリストの「ピエタ」という像のようなイメージで、死にゆく人に、『すべてをゆだねた』という感じを与えることが大事だとおっしゃるんです。死んでゆく時には、何か安らぎが必要だということですね。実際にするのは難しくても、そういうことを知っておくといいかもしれません」
――島薗先生は大学で学生に死生学を教えていらっしゃいますが、若い人は死についてどう考えているのでしょうか。
「大学で死生学の授業をすると、他の科目よりも学生の反応が多く返って来ます。先日は、『死の恐怖ということが、死生観を考えるきっかけだという話をしたら、『この世の苦しさから逃れたいと思って死を考えるということもあると思うけれどもどうか』という質問があった。我々の感覚では、若い人は、普段から死を考えているということはしないものかと思っていましたが、今の若い人は、死について比較的関心を持っていると思います。ただ、ちょっと早すぎる気がしますね。むしろ、私も含む団塊の世代に、死について学んでほしいですね」(終わり)
(2012年12月20日 読売新聞)
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ちょうど読んでいた本
最初は簡単で易しく読めるけど、だんだん難しくなるんです。(涙
日本人の死生観を読む 明治武士道から「おくりびと」へ (朝日選書)