小倉寛太郎「私の歩んできた道」


自分は沈まぬ太陽を大分前に読みました。
ノンフィクションではありませんが、当時の社会を描きだしていると思っています。
映画はテレビで中途半端に見損ねました。

そして御子息は大学院で先輩です。(本の中では確か薬学部となっておりますが、農学部です。年は一緒かな)。そして職場でも一時ご一緒させていただきました。


思想やイデオロギーを超えた、ブレない人であることは、周りの皆さん(ナイロビの方々)からも聞きました。
そんな小倉さん(2002年没)が一時的ではあれ母校の先輩でいた事を誇りに思うのです。

以下上記講演会より抜粋

甲府中学に疎開されていた時の話。

●疎開先の甲府中学時代

 そして私の場合、父の仕事の関係で、一家が甲府に疎開しました。甲府中学に疎開しました。3年の時です。甲府中学の動員先は山梨自動車産業という会社でした。そこでは自動車などはつくっておりませんでした。私たちのクラスが割り当てられた部屋には、かんなくずとおがくずとそれから、木材だけがたくさんありました。何をつくる工場なのか最初はわかりませんでした。我々に指示された仕事は鉄のちょうつがいみたいな心棒のところに桧材とベニ板で模型飛行機みないなもの、船みたいな胴体をつくってそこにネジでとめることでした。聞けばそれは飛行機の昇降舵と方向陀(尾翼のところにある舵)だそうです。木製です。その飛行機は聞いたところでは木製特攻機で、当時、日本には鉄もジェラルミンもアルミニウムも枯渇していました。いったん離陸したらぶつかるだけの飛行機に、ジュラルミンも鉄もアルミニウムも使うのはもったいない。もうそれだけの余裕はない。死ぬためのだけだったら、つっこむだけのためだったら、木で十分だということで木製特攻機。

 後で調べましたら、正式番号「キの115 剣(つるぎ)」という陸軍の特攻機でした。そうしてこの特攻機は離陸の時、車輪をおいていくそうです。なぜなれば、再び着陸することはないんだからもったいない、次の飛行機がまた離陸に使うということでした。私たち軍国少年は、とにかくお国のためだということで、終業時間が来ても、もっともっと増産というかけ声で残業に残業をついで働きました。表彰もされました。

 ところが、ある時、私にとって大きなショックを与えるできごとがありました。担任の先生に用があってさがしまわったんですが、先生がいらっしゃらない。そして工場の人に聞いたら、「ああ、当直室にいるよ」というので、当直室にいきました。ドアをノックして「甲府中学3年小倉、○○先生に用があって参りました」という軍隊式の申告をして、「はいれ」という声がしたので入ると酒のにおいがしました。見ると、配属将校(当時、各中学校、高等専門学校、大学には陸軍から配属将校というのが配属されて、監視役をやっていました)、担任の先生と配属将校と工場の幹部、それから工場の監督官である中佐が、車座になって酒を飲んでいて、お酌をしているのは当時、我々中学生といっしょに動員されてきた甲府の芸者さんたちでした。人に愛国を説き、増産を説き、滅私奉公を説いている人たちが昼間から、このような状況でいるというのは私は目が信じられませんでした。

 悪童れいに言わせると甲府に動員されていた芸者さんたち、普段は我々は一緒に働いていたんですけど、非常にかわいらしい私たちとかわらない人たちもいたんですけど、「そういうかわいい人がお酌をしていたから、お前はやきもちで怒ったんだ」というような人がいたんですが、そうではないんです。このとき、私は偉そうなことを言っている人たちが、本当に偉いのかどうか、疑問があるという気持ちがしました。しかし当時の情勢の中では、これはあくまで例外的なものだ、と自分で自分に言い聞かせていました。


●戦後、甲府中学でのストライキ

 そして先ほど申し上げたように、偉そうなことを言っている人が、必ずしも偉くないということが、戦争が負けていろいろでてきました。軍部の腐敗、政治家の腐敗、官僚の腐敗。そしてそれを明らかにして究明しようという動きも当然出てきます。

 卑近な話では、我々、甲府中学の在校生は平日は朝から晩まで特攻機づくりをしていました。学校にいくのは日曜日だけ。学校にいっても授業をするより忙しかったのは校庭での畑仕事です。当時、もう食べ物がほとんどありません。それで校庭をほじくり返し、じゃがいもをつくり、さつまいもをつくっていたんです。それでその次の日曜日に、そろそろ収穫期だと思っていくともうきれいにないんです。聞いたら先生が全部もっていってしまったということなんです。

 そして当時の先生方で悩んでいた方も例外の方もいますけど、やはり世の時流に流されて、軍の学校をうけないのは非国民、教練を熱心にやらないのは非国民、自由主義者だ、といってののしり、たたき、けりという状況だったんです。その反面、我々がつくった、食べ物のことをいうのはさもしいですが、育ち盛りではらぺこなんですよ。食うものがなくて。我々がつくったものを先生が全部もっていっちゃった。で戦争が終わった時に、われわれの怒りは爆発しました。同じように、ほうぼうの中学校でも爆発したんですけど、甲府中学が一番先頭をきって、校長やめろ、教頭やめろ、この教師やめろ、と名指しで大ストライキをやりました。食い物のうらみというのは恐ろしいですな。その中で、泣いて謝られた先生もおられます。

 それから、50数年たって、泣いて謝られた先生を中心に、毎年われわれはクラス会をやっています。そうして先生は、「君たちのときでよかった、君たちの一、二年上は、3分の1ぐらい死んでいる。私も送り出すために力を貸した。申し訳ない」と今でも言われます。というようなことで中学3年の時に戦争が終わりました。



沈まぬ太陽〈1〉アフリカ篇(上) (新潮文庫)
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