バタバタしていてアップするの忘れてた(笑)

ご興味のある方はどうぞ。



リンクが切れている(別のブログにした関係で)(笑)
こちらに置いておきます。一部画像は表示出来ず。その他一切加筆修正無し。(2015年3月)



アフリカの地から見えてくる日本(ある夢想研究者の記憶)



本文章は字数制限のため一部省略しております。ご興味ある方は全体をウエブでご覧いただけます。http://dream4ever.air-nifty.com/blog/ と記念誌用には書きましたが、これが省略部分のない全文です。(記念誌用の省略部分は東大の話と同窓会予算に関して)

本文



この文章を野口記念医学研究所があるガーナ共和国の首都アクラの長期滞在用安ホステルで書いている、昔を想い出しながら。

そう、初めてここに来たのは1984年大学院生の時である。そしてガーナはもう10回以上来ているのだろうか。家族5人で99−01年は2年間滞在した。

まずは思い込みの激しさに進路を誤った話から始めよう。

俺が甲府一高に入ったのは総合選抜制度で3校の普通高校になった年。一高、南高そして新たに西高(旧甲府二高)が加わった年だ。定員が増えたわけだから、おのずと入学可能合格点は下がったであろう。だから俺も入れたと思う。現に高校2年と3年は理系落ちこぼれ組だったし。でも何が嬉しかったって、強行遠足に参加できる事(お守りも貰ったしね)。まさに運が良かったのだろう。南や西に振り分けられていたら違った人生だったと思う。

さて、俺の夢は中学の時から獣医になることだった。それは動物行動学に興味があったからである。ガキの頃から身の回りには色んな動物がいた。貧しい家であったが小鳥がいたり猫がいたり犬がいた。もちろん小さな池には金魚やフナもいた。そんな背景があったのだろうか、サルの行動等に興味があり、きっと獣医にさえなれば、そんな研究が出来るとずっと信じていたのである。だから高校一年の一学期の数学の評点が5段階で2という段階で、入学式前から参加していたバスケット部を退部し、しこしこと勉強を始めたのである。貧乏というのは逆に小回りが利くというか自由である、金がないから、どうしたら安く効率良く点数が上がるかと考える。予備校や塾、家庭教師などもってのほか。そこで見つけ出したのが旺文社のラジオ講座(今はもう無いのかな)。1カ月分のテキストが確か500円くらいだった。それでいて、講師陣は参考書等を沢山出している有名講師である。多くの同級生は3年になってから聞き始めるのだろ。それを高校1年の夏から始めたのである。

さらに家にはエアコンなどないし、勉強部屋などの個室も当然無い。そこで見つけたのが県立図書館、完璧です。自宅と一高の中間地点、食堂もあるし、静かだし。空調は完璧。だから大学入学までの俺の勉強部屋は図書館だった。最初の頃はチャリで2年になったらバイクで夏は毎日通ったものです。朝一で入館、最終退館なんて良く出来たものだと今は思う。それでも成績はそんなに上がらなかったのはやはり努力が足りなかったのでしょう。第一志望は北大の獣医でしたから。

さて、麻布大の獣医になぜか落ち(ほぼ満点だと思ったが)、“こりゃだめだわ”と思い、駿台予備校午前部の推薦枠を貰い(一高にはそういう制度があった)、新聞奨学生の書類を取り寄せ、とりあえず鳥取大と農工大(俺達が一期校、二期校受験可能な最後)を受ける。どうせ受かる気がしないので鳥取ではパチンコ屋でひと遊びして大学も見ずに受験会場の高校で試験。

神は見捨てないですね(笑) なんと35人定員で38人合格、最低点が4人いたんです。そう俺はその最低点の一人だった訳。その後農工大を受ける訳だが、もちろん受かったら農工大に行きますよね。でも倍率30倍以上の難関、可愛い女子高生受験生も多くいたのですが、あえなく敗退。さすがに親に駿台午前部に行かせてくれとも言えず、鳥取に。

そして入学して気がついた、獣医には行動学の講義も講座もないことを(泣)

そうすると、することは決まっています、さらに寮ですから。徹夜マージャン、朝からパチンコ三昧な日々。そしてほぼ毎日水商売のアルバイト(ただ、このアルバイトのおかげで沢山の人との交流や人脈に繋がった。今でも交流は続いている)

まあ、こんな事をしていれば進級も難しくなるのです当然です。俺達の年から獣医は6年生になり、その過渡期として4年で卒業し修士課程の試験を一応うけて進級することになっていました。一応進級OKは頂きましたが、奨学金貸与はダメの判定。それなら休学して東大の修士に行って臨床やって動物病院でもと考えた訳です。もちろん受からない確立の方が絶対ですから、その時は働こうかなって。またまた神は見離さなかった。初めて出来る教室で学生が必要(ようは労働力)なので、臨床でなくて、ウイルス学だけどどう?って聞かれ、東大ならなんでもいいじゃん。もちろん喜んで!そんな感じで今のポジションの土台が出来た訳です。これを俗に学歴ロンダリングと言います。

さて、本題のアフリカである。修士を終えて、就職でもするかと考えていたのだが、働くのは嫌だしな〜と考えていたらボスが「石川君 博士課程に行くなら文部省の予算でアフリカとか行けるよ」と悪魔の声。ただで、それも憧れの海外、それも動物行動学の舞台でもあるアフリカ。何も考えずに「行きます、行きます博士課程」。そんな流れで1984年初めての海外旅行がアフリカ4カ国、アジア2カ国というアクロバット的な旅のカバン持ちで始まった。当時はヒトの白血病ウイルスに似たウイルスがサルにもあるのではないかとの作業仮説(実験や研究には必ずこれがある)を立て、世界のサルに関してウイルスの保有調査を始めたのだ。その後、HIV/AIDSも同様にサルのウイルスが近似であることがわかり、当時の俺の居たラボが世界の最先端を走ることになる。でも特に新しい技術がある訳でもでもなく、ただ色んな国に出かけてサルを捕獲して採血したりしていたのだ。

さらに、病院を巡ってヒトからの採血も行って、ガーナにおいてはガーナ最初のAIDS患者の同定、および世界で2番目となるHIV2型ウイルスの分離に成功することになる。

そういえば山梨最初のHIV陽性者の同定も俺が衛生公害研究所に居た時だった。



今はエイズ治療薬も出来、致死的な感染症から慢性感染症に変わりつつあると言われている。しかし薬は生涯飲まなければならないし、副作用の問題以上に薬剤耐性、すなわち既存の治療薬が効果を示さないウイルスが長期薬剤服用のために出現する問題に直面している。ここガーナでもやっと基本的な薬剤を使用しての治療が開始された、その治療効果の判定と薬剤耐性ウイルスの出現をモニターするシステムを構築し、より効果的かつ効率的な治療方法を持続させることを考えている。まだまだ貧困問題や劣悪な医療福祉レベルな状態ではあるが、キラキラした笑顔で、そして裸足でサッカーをしている子供達を見ていると、幸福とは何か?という問いは自然に生まれてくる。そして、時間とは何か、労働とは、あるいは貨幣とは何かと。そして日本は天国だなって。ある日本留学経験のあるガーナ人が言った「日本には神様はいらないね、だって祈る様な事何もないから」。返す言葉が無かった。

科学技術は決して万能ではないし、普遍的な真理でもない。日本では格差貧困問題と叫びながらコンビニ弁当は時間が過ぎれば捨てられ、食物を輸入してまで食べ残す民族と揶揄されている。果たして日本は何処に向かっているのかと。



最後に敢えて書き遺しておきたい。莫大な広告代をノルマの様に集め、パーティー券を売りまわり、若い同窓生はほとんど参加しない総会という名の宴会を有名ホテルで開催することが、一高の伝統なのかと。一高の後輩のため、それは良い。残りの人生をエンジョイするため?(何だ、残りの人生って)良く分からない理由づけで前例主義を踏襲するのだろうか。

「質実剛健」boys be ambitious は何処にあるのだろうか。

ノブレスオブリージュも利他的という文脈もない伝統になりつつあるのだろうか。

(最後に敢えて書き遺しておきたい。莫大な広告代をノルマの様に集め、パーティー券を売りまわり、若い同窓生はほとんど参加しない総会という名の宴会を有名ホテルで開催することが、一高の伝統なのかと。一高の後輩のための同窓会活動であれば、それは良い。「質実剛健」boys be ambitious は何処にあるのだろうか。)要約バージョン(記念誌用)では記念誌担当者の指摘でこの部分をとりあえず削除したけどね(笑)


若い同窓生の皆さん、在校生の皆さん、伝統とは何か考えてみてはいかがでしょうか?単に“よっちゃばって”旧交を温めるだけが同窓会ではないのではないのでしょうか?

同窓会総会それ自身の在り方を考えなおす130周年記念であってほしいものです。決して金額だけの問題でなく、甲府中学および甲府一高という存在そのものを歴史という、あたかも循環し蓄積する時間の流れの中であり方を。

ご参考までに。



【収入】 

学年寄付金  400万円    

会員券売上  600万円         

広告等収入 1200万円         



     計     2200万円         

【支出】 

懇親会   800万円

記念誌作成 300万円

寄付金   500万円

事務局費  600万円

計    2200万円



若い同窓生の皆さん、もしお時間あれば読んでみてください。決して時間の浪費にはならないと信じています。

池田晶子 14歳からの哲学、その他

宮本常一 忘れられた日本人、その他

網野善彦 日本の歴史をよみなおす、その他(山梨出身の歴史家)

養老孟司 逆さメガネ、 その他

内山節 戦争という仕事、清浄なる精神、その他

川上健一 翼はいつまでも

恩田陸 夜のピクニック (恩田さん出身の水戸一高の強行遠足小説)

芦澤一洋 アーヴィングを読んだ日 (一高の先輩、1938−1996)

ご異論、反論なんなりと koichi.ishikawa@nifty.com





プロフィール(執筆時)

石川晃一 昭和34年生まれ 昭和53年甲府第一高等学校卒業

鳥取大学農学部獣医学科卒業

東京大学農学系大学院博士課程修了 獣医師 農学博士

エイズ予防財団リサーチレジデント、山梨県衛生公害研究所研究員(s63-h5)

ベルギー熱帯医学研究所(アントワープ、96−98)ビジッティングサイエンティスト

現在

国立感染症研究所 エイズ研究センター主任研究官(h5- )

東京医科歯科大学医学部 ウイルス制御学講座 特任教授(h21- )

新興・再興感染症研究拠点形成プログラム ガーナ共和国拠点長(野口記念医学研究所)(h21- )





記念誌用画像 下記リンクよりどうぞ
野口記念医学研究所内の高度安全実験施設(P3)で働く同僚(画像)

50歳の誕生日をガーナで迎えた。同僚のサプライズプレゼントのケーキにナイフを入れる俺。ベルギーでもここガーナでも自分が誕生日のイベントを行うことが多い。食事に招待したらこのケーキを頂いた。(画像)

皇太子殿下臨席のもと行われた野口アフリカ賞の際の新聞記事(追加画像)