考える日々 池田晶子  毎日新聞社 1998年

読んだのは2004年6刷
本書の、考える日々はサンデー毎日98年に連載、考えない人々は月間ボイスで97年に連載したもの。これが初めての週刊誌連載だそうだ。あとがきで池田さんが書いているように何(十)年たっても読み直すことができるはずだと。そしてまさに10年以上たった今読んでも色あせていないのである。
備忘録的に池田語録を記しておく。
池田さんは、なるべく哲学という言葉を使わないと書く。そして「考える」と言う。
そうすると皆が考えていると言うと、でもそれは「悩んでいる」のであると。
思想と哲学の違いについて、思想は、生活に立脚しないことができるかもしれないが、哲学は生活に立脚しないことはできない。思想はどこからか持ってきて取って付けることができるが、哲学は絶対できなし。(マルクスを引いて)
哲学をもつ、のでなく(思想をもつことは可能)哲学はたんに「する」ことしかできない。
職業とか会社とか国家とか、自分以外の名前をプライドにする人は、自分にプライドをもっていない。「いやしい」「あさましい」「みつともない」行いをしながら、「私にだってプライドがある」とは、サルだって笑うだろう。
養老さんとの対談の時に養老さんに「あなたは、変わっている」と呟いたという。私からみれば、養老氏のほうが、よほど変わっている。あれほどの「変人」に、「変人」呼ばわりされるのだから、これはもう勲章のようなものではなかろうか。と書く。
臓器移植法の成立に関して、「科学技術の畸型的発達は、人間の生の意味に不可逆的な変質をもたらしたが、それでもなお「愛」という言葉を信じたいなら、人がその生の意味を知る機会を奪うべきでない。もはや可能性は、そこにしかないのだから」
自然の中では、人は、「私が」という言葉が必要がない。それが、人が自然にくつろぎを覚える理由だろう。人にとって、何が負担といって、「私が」というこの思いほど、負担で苦痛なものはないからである。
「考えられていない」神への信仰は宗教になるし、「考えられていない」物質への信仰が、科学になる。


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