芦澤一洋(1938−1996)山梨県鰍沢町生まれ 早稲田大学卒

ナチュラリストそしてフライフィッシャーとして有名な芦澤さんのまさに核の部分となる
大学入学までの山梨での生活も垣間見れる。
ワシントン・アーヴィング「ザ・スケッチ・ブック・オブ・ジェフリー・クレイオン・ジェンツ」との出会いから話が始まる。
そして目次にあるような人々の著作や生き方を通して芦澤一洋という一人の男が出来上がったのだろう。
彼は書く。
確かに私にも、”いま・ここ”だけが実在のものだという認識はある。とはいえ、未来はいざ知らず、過去は、自分にとって、決して役立たずのものではないように思えるのだ。
あるいはそれは、私が五十歳代の半ばという年齢に達したことと無関係ではないのかもしれない。
今、私は過去を振り返ることに後ろめたさを覚えなくなっているのだから。
中略(芦澤さんの戦争体験、学生運動、ソローの著作等との出会い)
物質的利益の追求とは縁切りして簡素に生きようとするライフスタイルに私はますます心を惹かれていった。
自然の庇護のもとでの、慎ましやかな、また本質的な生活。軽く、巧みに、そして美的に生きること、それが私の願いになっていた。
三つの変革を通過した後、気がついたら私は、右の手に鱒を釣るためのフライロッドを握って川を歩いていたのだった。

目次 
アーヴィングを読んだ日
幻の桃源郷ー宮崎湖処子
四尾連湖の静寂ー野澤一
薬研の午後ー大町桂月
遠野に吹く風ー水野葉舟
鰍沢の青にー秋山秋紅蓼
山と星と雲とー野尻抱影
西茂住の思いー小島烏水
十三歳の富士ー吉田紘二郎
多摩川の水辺でー中村星湖
あとがき


明治45年当時の甲府中学の校長は大島正健(札幌農学校一期生、クラーク博士の直弟子、二期生には内村鑑三)
この大島正健は大島正満の父である。内村鑑三は実は魚類学者でもある。
正満は知る人ぞ知る魚類学の大家であり、ミヤベイワナ、本州のイワナ、サクラマスなどの学名にOHSHIMAの名が入っていることは有名である。そして野尻抱影の一番の親友なのだと。
ちなみに甲府一高にあるBoys be ambicious の額は石橋湛山が毛筆で書いたのだそうだ。
野尻抱影は大島校長の時代の甲府中学教師(5年間甲府に住)、そして石橋湛山、中村星湖は甲府中学出身である。

西茂住の思い、の中で芦澤さんは書く
双六谷の水は今でも十分神秘的だ。秘密がたっぷり詰め込まれて感じがする。初めてこの水に出会った時、私は決意を固めたものだった。私の釣り道具は先ずこの水に清められねばならないと。世の中のには美しい水というものが確かに存在するのだ。
大正3年7月28日から8月10日にかけて双六谷遡行の旅を経験した烏水が、「双六谷の水の美」文中に言う。
「高原川の浄明な、美しい水へと突っかけて来る双六谷の、その又水の麗しいことと言ったら、只だもう青い火である。私はそれを液体と言いたくない、たとい氷のように冷たくても、それは焰である。紫の山や、黒い森から、飛んでめらめらと岩石を燃えつくす一団の青い火である。この色が、この精力が、この音響が、この暗示が、深遠を閃めかす青い火でなくて何であろう。・・・・とろりと青く澄んでいる
深潭を見つめていると、あまりに透明に青澄んでいるので、ぐらぐらと眩暈がして後髪を引き倒されそうになる」

多摩川の水辺で、の中で芦澤さんは書く
やがて私はもうひとつの別の電車は見ている自分に気がついた。甲府の中学、高校に通学していた少年の日の身延線、三輛編成の小豆色の電車。春霞の盆地を走る車両の一角に、高校入試一年前、家出した。私が座っていた。
私は改めて感傷の渦に呑み込まれた。
鰍沢中学の三年生、十四歳。親しかった友の何人かはすでに、甲府一高への進学を目指して甲府市の学区内に籍を移し、それぞれ市内の中学へ通っていた。取り残された私は、自分の未来に漠とした不安を覚えつつ、定まらない気分のなかに春の盛りの日日をすごしていた。

僕はこんな先輩が持てて本当に幸せである。
そしてフライフィッシングをしながら芦澤さんの歩いた渓をたどりたいと思う。



アーヴィングを読んだ日―水と空の文学誌
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