池田晶子さんの「暮らしの哲学」の中にある。
回帰する季節に記憶を重ねることで、人生の一回性を確認することに他なりません。中略。大人になっても夏は来ます。でも夏休みはもう決してやって来ない。毎年、夏の気配を感じとる頃、夏を待っているのか、夏休みをまっているのか、よくわからない感じになる。大人になって勝手に夏休みをとることができ、贅沢な旅行ができるようになっても、子供の夏休みの日々、あの濃縮された輝きにかなうものではないとういうことが、よくわかっている。おそらくすべての大人がそうでしょう。すべての大人は、もう決してやって来ない夏休みを待っている。人生の原点であり頂点でもある無時間の夏、あれらの日々を記憶の核として、日を重ね、年を重ね、流れ始めた時間の中で繰り返しそこに立ち戻り、あれらの無垢を超えることはもうこの人生にはあり得ないのだという事実に、今さらながら驚くのではないでしょうか。(夏休みは輝く)
この文章を読んだ時、僕は腑に落ちたのである。人生の一回性に対して。
しかし、その後、内山節さんの「時間」に対する考え方を聞いてから
だいぶ捉え方が変わりました。
時間には直線的な時間(まさに現在の市場経済的流れ)と循環する時間(種を植え、刈り取り、また種を植える様な)があることを。
そこに人生の循環性(老いて死し、あるいは若くして死し、山に帰る。そしてまた新たな生が山からもたらされる様なある種山岳信仰的な)を見ることが出来る。
池田晶子さんはアンチエイジング(抗老化)などというのは愚かな行為だと嘆き、生老病死を受け止める姿勢が大切だという姿勢だったと思う。
しかし、この夏休みの輝きの中にやはり老いること、死に向かうご自身を見てしまったでしょう。
でもきっと今、池田さんも、どこかで又生まれ、夏休みのある生活を迎えようとしているのだと思います。
そんな池田さんが亡くなって来月で2周忌。
回帰する季節に記憶を重ねることで、人生の一回性を確認することに他なりません。中略。大人になっても夏は来ます。でも夏休みはもう決してやって来ない。毎年、夏の気配を感じとる頃、夏を待っているのか、夏休みをまっているのか、よくわからない感じになる。大人になって勝手に夏休みをとることができ、贅沢な旅行ができるようになっても、子供の夏休みの日々、あの濃縮された輝きにかなうものではないとういうことが、よくわかっている。おそらくすべての大人がそうでしょう。すべての大人は、もう決してやって来ない夏休みを待っている。人生の原点であり頂点でもある無時間の夏、あれらの日々を記憶の核として、日を重ね、年を重ね、流れ始めた時間の中で繰り返しそこに立ち戻り、あれらの無垢を超えることはもうこの人生にはあり得ないのだという事実に、今さらながら驚くのではないでしょうか。(夏休みは輝く)
この文章を読んだ時、僕は腑に落ちたのである。人生の一回性に対して。
しかし、その後、内山節さんの「時間」に対する考え方を聞いてから
だいぶ捉え方が変わりました。
時間には直線的な時間(まさに現在の市場経済的流れ)と循環する時間(種を植え、刈り取り、また種を植える様な)があることを。
そこに人生の循環性(老いて死し、あるいは若くして死し、山に帰る。そしてまた新たな生が山からもたらされる様なある種山岳信仰的な)を見ることが出来る。
池田晶子さんはアンチエイジング(抗老化)などというのは愚かな行為だと嘆き、生老病死を受け止める姿勢が大切だという姿勢だったと思う。
しかし、この夏休みの輝きの中にやはり老いること、死に向かうご自身を見てしまったでしょう。
でもきっと今、池田さんも、どこかで又生まれ、夏休みのある生活を迎えようとしているのだと思います。
そんな池田さんが亡くなって来月で2周忌。
考えること、やっとること、読んどるもんがよ〜似とる。 上温湯隆なんて読んどるおっさんは他におらんかもと思っとった。 イワナも釣って、ヒラメ(やまめ、あまごのこと)も釣って何十年、最近はアジにも凝っております。
還暦迎えても、青春を謳歌しとります。
元気でやってください!