内山節さんの話の中に多職性の回復というテキストがあった。
森林ボランティアの話から始まったのだが、彼らはお金を得ている訳ではないが仕事として間伐や下草刈をする。世の中の多くの給与所得者は一職なのである。
里に住む人々、お百姓さんは、実は百の姓がある、すなわち100人分の職を持ちうる。一人で作物を作り、家の補修や機械の整備、その他諸々の事を普通にこなすのである。
仕事と稼ぎと言う文脈において、共同体としての仕事、モノを融通するための貨幣としての稼ぎがある。近代においては、恐ろしいまでに、この稼ぎに執着せざるを得ない状況が作り出された(我々が作ったともいえる)。
その結果が一職性であろう。
最近、異業種交流などいう流れがあるが、それもこの一職性への危惧なのかもしれない(もちろん多くの場合経済という枠の中だけだが)。
この一職性は多様化している様に見える世界が実は単一化しつつある事を明らかにしていると思う。
身近な例では、科学者が自分の分野以外の事に興味を持たず、面白ければ何をしても良い的な輩が多くなって居る事である。論文という指標を計りにかけて評価することはある意味、非常に客観的に思われる。しかし、果たしてその単一的評価が未来を明るいものにするのか?
一流大学を出た博士様が平気に捏造や倫理違反をする現実をどう捉えるのか。
ふと考えたら、日本人と言う民族は未だに多職性を破棄はしていないように思う。釣りバカ日誌的な上下関係(社長と社員がある意味平等に接する)は実は多職への潜在的憧れと見る捉え方は間違っているかな?
多職性の回復が実は今後の日本に大きく影響しているように思えてならない。そしてそこから生きるための多元で多様な思想哲学が生まれてくるような。
遊びや趣味でない技を一つでも多く持つことの意味が多職性へ連なっていくのだろうと思う。(追記予定)
森林ボランティアの話から始まったのだが、彼らはお金を得ている訳ではないが仕事として間伐や下草刈をする。世の中の多くの給与所得者は一職なのである。
里に住む人々、お百姓さんは、実は百の姓がある、すなわち100人分の職を持ちうる。一人で作物を作り、家の補修や機械の整備、その他諸々の事を普通にこなすのである。
仕事と稼ぎと言う文脈において、共同体としての仕事、モノを融通するための貨幣としての稼ぎがある。近代においては、恐ろしいまでに、この稼ぎに執着せざるを得ない状況が作り出された(我々が作ったともいえる)。
その結果が一職性であろう。
最近、異業種交流などいう流れがあるが、それもこの一職性への危惧なのかもしれない(もちろん多くの場合経済という枠の中だけだが)。
この一職性は多様化している様に見える世界が実は単一化しつつある事を明らかにしていると思う。
身近な例では、科学者が自分の分野以外の事に興味を持たず、面白ければ何をしても良い的な輩が多くなって居る事である。論文という指標を計りにかけて評価することはある意味、非常に客観的に思われる。しかし、果たしてその単一的評価が未来を明るいものにするのか?
一流大学を出た博士様が平気に捏造や倫理違反をする現実をどう捉えるのか。
ふと考えたら、日本人と言う民族は未だに多職性を破棄はしていないように思う。釣りバカ日誌的な上下関係(社長と社員がある意味平等に接する)は実は多職への潜在的憧れと見る捉え方は間違っているかな?
多職性の回復が実は今後の日本に大きく影響しているように思えてならない。そしてそこから生きるための多元で多様な思想哲学が生まれてくるような。
遊びや趣味でない技を一つでも多く持つことの意味が多職性へ連なっていくのだろうと思う。(追記予定)