内山節さんから時間の存在論に関して話を聞いた。
すでに内山さんの「時間についての12章」は絶版になっているようで、読めないのが辛い。鎌倉図書館にもないようだ。

内山さんは時間を大きく二つに分けた
直線的な時間(時の矢、一直線の矢印を引いてみてください。)ーー不可逆的であり等速である。これを現代と捉える。そして、ひたすら消費する対象となっている。
もう一つは
循環している時間(円を描いてその円周に矢印を入れてみてください)ーーー可逆的であり非等速である。これは自分の前で循環している時間であり、農業における季節の回帰性でも良いし、共同体としてのお祭りでも良い。

自然からの離脱あるいは共同体(ムラの社会)からの離脱は直線的な時間へ移行する。
本来循環する時間の中で時間が蓄積された森は林野庁の木材の金利計算(何年でどの位の利子を生むか等)により森林に直線的時間を導入してしまった。

循環する時間は見方を変えれば永遠性を含有する。すなわち人生までもが実は一回性ではなく、循環する時間の中で生死と言う一回性に見えるサイクルの外を、森に還り、自然となりムラを見守るという大きな輪で循環する。

現在は(特に都市は)、時間は消費するものであり、消費の効率の優劣を競っている、すなわち時間は蓄積しない。

蓄積された時間とは、技術であり、作法であり文化や歴史でもある。

時間はどのようなものとして存在するのか、人間はどのように時間に関係するのか。関係が変化することで存在も変化する。

森林と人との関係 森の存在は人の見ている森の多様性(森の見方が異なる)の中で関係を結ぶ方法が多様である。すなわち私の前にある森の姿は一つではない。林業であったり、景観であったり、また水であったり防災であったりする。

人とムラとの関係の結び方が、自然と人間の里、生と死の里と言う捉え方をはずれ、人間の生のみを考える現在において循環する時間はあるのだろうか?永遠の循環はあるのだろうか。
時間に圧迫される現在を我々はどう捉えるのがよいのだろうか。

Sさん間違ってないかな?このメモで。