以前ペットボトルのおまけで付いてフィギャー(いかんいかん、最近はペットボトルは極力買いません、自販機も使いません)いつも職場の机の上に置いてあります。
こんな風景が当たり前だった様に僕の頭には刷り込まれています。
宮本常一さんは「縁側」の喪失がムラの崩壊の一つの指標ではないかとの示唆をしていたと思います。
縁側でお茶を飲みながら、今年の気候や作付けを話し合う様な「とき」を過ごす余裕が無くなってしまったのかもしれません。
下町でも縁台将棋なんていう風俗がありました。だからこそ地域共同体の潤滑油としての「とき」が流れたのでしょう。
輸入してまで食べ残す同胞がいる。安いから食う。
食うために生きる人たちばかりの国になってしまったようです。
生きるために食う。
そんな生き方をしたいと思う無知なオヤジである。