図書館本
週刊新潮2006年8月から2007年3月15日号、ブルータス、ランティエに掲載されたもの。池田氏は2007年2月23日に逝去
週刊誌等への掲載のため、時事ネタも多く、池田氏自身の物事の本質を見極めた言説が気持ちよく響く。そしておそらく、すでに死を悟って筆を進めていたのだろう。
ゲームの影響による、死に対する理解の欠如(画面の中で人を一方的に殺し続けていれば、自分が死ぬということは忘れる)。
今の北朝鮮を60年前の日本と比べれば、同じであった事を考えれば、非難できるだけの正当な理由があるのだろうか?と指摘する。
金儲けだけを考える人間はその金の使い方を知らないと指摘する。お金を使う事に知恵を絞らないと。財を手に入れた人間が、次に欲するのは名誉であり、そのお金の使い方にこそ、その人の人格が現れる。お金の使い方の高貴な人が、高貴な品格の人だと。
生活のための教育は、人生のための教育ではない。生活のための教育しか受けなかった人間は、生活のために生きることしかできない。いかに生活するかは知っていても、生きるとは何なのか知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。このことを知っているから、私は子供に教えたりしない。教えるのは、自分がいかに知らないか、これだけである。(無知の無知より)
「馬鹿野郎。てめえらとは覚悟が違う」小林秀雄が、たむろする群小評論家たちを一瞥して吐くところを、知人は見たそうだ。文章の職人としてこの人から、私は人生の多くを学んだ。(「プロ」といえる人)
池田氏の「哲学者」の定義あるいは本質:あえて科学的に説明するとと枕を置いて、哲学者は、性欲を大脳で昇華するのである。p92
学者の魂 白川静氏の死に関して綴る中で。狂気を知る人、すなわち本物の学者など、おそらく指折り数えるほどしかいない。その数はいよいよ少なくなっている。いるのは、ただの研究者、追随者、学閥政治家、曲学阿世の道化、そして税金泥棒だけである。p103
人間自身―考えることに終わりなく
週刊新潮2006年8月から2007年3月15日号、ブルータス、ランティエに掲載されたもの。池田氏は2007年2月23日に逝去
週刊誌等への掲載のため、時事ネタも多く、池田氏自身の物事の本質を見極めた言説が気持ちよく響く。そしておそらく、すでに死を悟って筆を進めていたのだろう。
ゲームの影響による、死に対する理解の欠如(画面の中で人を一方的に殺し続けていれば、自分が死ぬということは忘れる)。
今の北朝鮮を60年前の日本と比べれば、同じであった事を考えれば、非難できるだけの正当な理由があるのだろうか?と指摘する。
金儲けだけを考える人間はその金の使い方を知らないと指摘する。お金を使う事に知恵を絞らないと。財を手に入れた人間が、次に欲するのは名誉であり、そのお金の使い方にこそ、その人の人格が現れる。お金の使い方の高貴な人が、高貴な品格の人だと。
生活のための教育は、人生のための教育ではない。生活のための教育しか受けなかった人間は、生活のために生きることしかできない。いかに生活するかは知っていても、生きるとは何なのか知らない大人は、たんに先に生きているだけであって、何を知っているわけでもない。このことを知っているから、私は子供に教えたりしない。教えるのは、自分がいかに知らないか、これだけである。(無知の無知より)
「馬鹿野郎。てめえらとは覚悟が違う」小林秀雄が、たむろする群小評論家たちを一瞥して吐くところを、知人は見たそうだ。文章の職人としてこの人から、私は人生の多くを学んだ。(「プロ」といえる人)
池田氏の「哲学者」の定義あるいは本質:あえて科学的に説明するとと枕を置いて、哲学者は、性欲を大脳で昇華するのである。p92
学者の魂 白川静氏の死に関して綴る中で。狂気を知る人、すなわち本物の学者など、おそらく指折り数えるほどしかいない。その数はいよいよ少なくなっている。いるのは、ただの研究者、追随者、学閥政治家、曲学阿世の道化、そして税金泥棒だけである。p103
人間自身―考えることに終わりなく
一緒にしないでよ。熱病はすべて強制じゃなかったし、自国民を長期的に弾圧して飢えさせるような愚民じゃない。
>>生活のための教育しか受けなかった人間は生活のために生きることしかできない・・・
「忘れられた日本人」は、たとえ無知でも哲学まで到達できた人も存在しますよ。
性欲を大脳で昇華するより、夜這い文化を支持したい。潔癖性は理解できるが、あんまり人を一くくりするのはいかがなものかと。。。