中公文庫 2004年 667円
1998−2000年にかけての執筆や講演記録に文庫化に際して一編を加えている。
まず感じたのは、文章がストレートである。これは最近の著作の多くが口述筆記によるものだからかもしれない。でもおそらくこの本の文章が養老先生の言質を良く表しているのだと思う。読み応えあります。
日本人の歴史の消し方と言う考え方、過去は水に流す日本社会といった流れの中で日本のアメリカ化を危惧する。日本は歴史を消し、アメリカは歴史を持たない。
欧州の人々が日本がここまでアメリカ化することに危惧していると指摘している。
アメリカも実は歴史を消している、ネイティブアメリカンを物理的に消しているのだから。
自然について考えるという項で
都会人は未来を信じることをやめた人たちである。すべてを意識化し、計算するからである。意識化された未来は、もはや未来ではない。それは現在なのである。自然を保護してなにになるか。「なにになるか」という疑問は、意識化を要求している。そうした疑問を発するなら、自分で考えればよい。
養老先生は一神教が嫌いである。いろんな著書に書かれている。この本の中でも:
釈迦は都市を出て、自然に戻った人である。仏教が人の煩悩、欲望を去れと教えるのは、基本的には都市批判、脳化批判なのである。
規則を作りたがる日本人。 養老先生が赤提灯で酒を飲んでいると「東大教授とあろうものが、こんなところで酒を飲んでいていいのか」などと言われるそうである。この「―――とあろうものが」という見えない規則に縛られていては、面白い世界が広がることもないだろう。と言う。
学問の評価は自分でやるべきである。これは現在の研究者の評価への強烈な苦言である。
論文が掲載される雑誌により点数が決められ、点数の良い雑誌に記載された仕事は良い研究だと言う。まさに現実に起こっている論文捏造やそれに関連する諸問題を的確に指摘している。
養老先生は30代後半まで酒が飲めなかったそうである、それが一晩でボトル一本飲めるようになったが今はもう酒は飲まないのだそうだ。
男らしく女らしく
本来、女性の方が強い、だからしつけで女の子はおしとやかにと躾をする、男の子は勇敢に、元気であれとしつけ教育する。なるほどである。
養老先生は英語で論文を書くことを止めた。おそらく教授になるまでは流暢な英語を書かれていたのである。その後はまったく書いてないそうだ。それは自分が一番重要だと思う仕事を、本当に英語で表現できるのか、していいのかの自問だったそうである。「英語で書くなんてことまでして、科学者になりたくない」。なるほどである。
多くの読者が「じゃあ、どうすればいいのか?」「養老は抽象的」と言うらしい。
それがまさに都市化、脳化した現代人なのであると言う。答えは自分で見つけなければいけない。その答えは自然の中にあると自分は思う。
