昨日の養老先生の講演を自分なりにまとめてみました。誤字脱字ご勘弁。

科学技術ジャーナリストに求められるもの  養老孟司

いくつかの著書の中で養老先生が英語論文を書かなくなった理由を書かれているが、非常に分かりやすく説明された。科学論文は殆ど現在英語で書かれているわけである、そのフォーマットがイントロ、マテメソ、リザルト、ディスカッションとなっています。それが本当に良いフォーマットなのかと疑問を持った事、日本語なら1週間で書ける論文が3ヶ月かかること等々でした。これは最後の方で述べられた。違いを感じ取る感性の話にも繋がります。続いてこれも著作の中でも述べられているのですが、学会が業界となり狭い範囲の中で利益確保の集団となっていた事に対する不満です。科学ジャーナリズムもその学会と言う業界の中にいると非常に文章を書きやすいし楽チンである。しかし本当の科学技術ジャーナリズムを目指すのであれば、常に塀の上を歩かねばならない、塀の内側は学会、外側は一般社会である。
新聞の一面は大方の場合、政治である。しかしどうして政治でなければいけないのか?確かに政治は大事であるのだが、それが当たり前だと考えている事がおかしくないのか?

コミュニケーションとは情報のやり取りである。情報とは文章であったり、映像であったり音声であったりするが、それは止まっている事象である。だから人間はそれらの情報を“同じ”と認識できる。この辺は養老先生の脳科学の話をより分かりやすく僕らに噛み砕いて説明してくれていますが、自分で書こうとすると上手くかけませんね。

しかし情報というものはある種都市化された世界だけの話なのである、お金も一緒、お金と言うものが“同じ”と言う認識の中で経済が動いているに過ぎない。視覚から入ってくるお金の映像、聴覚から入っている百円と言う音声、それを大脳で統合している。

最後に養老先生が科学技術ジャーナリストに望まれる事として話された事。
自然の多様性豊かな日本(生物の多様性と言う言葉は嫌いだそうです。後述)において自然に触れることの重要性を強調されました。これは感性に大切です。違いを分かる事はまさに感性の豊かさなのです。これは都会にいては出来ないのです、ですから1日15分でもいいから人間が作り出せないものに触れる事が重要です。もちろん、これはジャーナリストだけの問題でなく、多くの都会でのみ生活する人間にも当然あてはまるのだろう。

生物の多様性。情報は言葉や映像になった瞬間に過去の事象になってしまうのです、晴雨物の多様性と言う言葉になった瞬間にそれはある種過去になる。人間が作り出せもしない自然を言葉で定義するのは好ましくないと養老先生は思われていると思う。