このブログの訪問者は微々たるものですが、その何割かは
サーチエンジンで「論文捏造」「大阪大学、捏造」等で
引っ掛けて、お越しいただいているようです。
しがない、肩書き研究員が書いている程度の内容なんです。
でも、根本は人間としてやって良い事といけない事の区別が
出来るか出来ないかと言う事でしょう。
昨今のばれなければ何をしてもいい、自分さえ良ければ、とか
そんな流れの社会の中である人は追い込まれて、あるいは
罪悪感も無くデータを作るのでしょう。
実験には当然間違いはあります、データの解釈の誤りもあります。
でも、それは捏造とはまったく異なります。
論文捏造の問題は最初は個人あるいは非常に少数の人間の間の
問題だったのです。それが、学科、学部そして大学レベルに
広がって行っています。初期対応が出来て居なかったのでしょう。
そして、なんとかうやむやにしようとした流れもあったのでしょう。
すべてが想像の域を出ませんが、大切な事は情報公開と徹底的な
再発防止のためのディスカッションではないでしょうか?
研究って個人のためにやっているんじゃないと思います。
結果が直ぐに社会に貢献出来なくとも将来に役立つ事が
あるからなされているのでしょう。
いきなり話が飛びますが、おいらはやってはいけない研究が
あるとすると、誤解を恐れず書くとそれは不老不死を求める
研究だと思います。病気を治す研究は良いのです。でも
人間が死ななくなる研究は、死生観によるのですが、いけないと
思うのです。それは自然に対する冒涜でしょうし、自然が許す
はずはないと思います。一昔前は人生50年でした、今は80年
あるいは100年とも言われだしました。
成果至上主義あるいは論文至上主義とも言われます、もちろん
成果が評価の対象になるのは当然ですが、腰を据えて将来を
見据えて取り組む研究がより多くなる事が国家の品格にも
影響するように思うのであります。
サーチエンジンで「論文捏造」「大阪大学、捏造」等で
引っ掛けて、お越しいただいているようです。
しがない、肩書き研究員が書いている程度の内容なんです。
でも、根本は人間としてやって良い事といけない事の区別が
出来るか出来ないかと言う事でしょう。
昨今のばれなければ何をしてもいい、自分さえ良ければ、とか
そんな流れの社会の中である人は追い込まれて、あるいは
罪悪感も無くデータを作るのでしょう。
実験には当然間違いはあります、データの解釈の誤りもあります。
でも、それは捏造とはまったく異なります。
論文捏造の問題は最初は個人あるいは非常に少数の人間の間の
問題だったのです。それが、学科、学部そして大学レベルに
広がって行っています。初期対応が出来て居なかったのでしょう。
そして、なんとかうやむやにしようとした流れもあったのでしょう。
すべてが想像の域を出ませんが、大切な事は情報公開と徹底的な
再発防止のためのディスカッションではないでしょうか?
研究って個人のためにやっているんじゃないと思います。
結果が直ぐに社会に貢献出来なくとも将来に役立つ事が
あるからなされているのでしょう。
いきなり話が飛びますが、おいらはやってはいけない研究が
あるとすると、誤解を恐れず書くとそれは不老不死を求める
研究だと思います。病気を治す研究は良いのです。でも
人間が死ななくなる研究は、死生観によるのですが、いけないと
思うのです。それは自然に対する冒涜でしょうし、自然が許す
はずはないと思います。一昔前は人生50年でした、今は80年
あるいは100年とも言われだしました。
成果至上主義あるいは論文至上主義とも言われます、もちろん
成果が評価の対象になるのは当然ですが、腰を据えて将来を
見据えて取り組む研究がより多くなる事が国家の品格にも
影響するように思うのであります。