本の中の文章。備忘録として書き残す。
甲州人バンザイ!(笑)
「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。でも甲州では、中沢も網野も差別などはされなかった。ここなんだよ。ぼくが中世前期にはまだ非人は差別などされていなかった、聖なるものにかかわる特別な人たちであるという意識はあっても、賤しい人間として差別などされてなかった、そういう差別が本格的にはじまるのは南北朝ののちだ、というようなことを書くと、関西の歴史学者なんかから猛烈な反発がやってくるというのは、君も知っているだろう。非人の系譜に連なるものが、今にいたるまで差別されたことなどない世界というのを、そういう歴史学者は体験したことがないんだよ。貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まれない土地だと言われてきたけれど、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたとも言えるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ」
堂々たる自信をもって生きる非人。アイヌであり、イヌイットであり、真実の人間そのものである非人。これが網野さんの理想の世界をあらわす、ひとつの鮮明なイメージであった。網野さんは「非人」という概念そのものの近世的理解を、根底からくつがえそうしていた。その言葉に、豊かで肯定的な意味を、真新しく付与しようとしたのだ。非人=非人間は、自然との直接的な交歓のうちに生きる。エロチックな身体と直接性の精神をもって、職人として世界を自らの能力によって創造することのできる者たちだ。生の原理だけでできた、あらゆるものごとが媒介されている世界に生きている者たちを、近代のやり方で「人間」と呼ぶことにすれば、そこから排除された非人間たちは死のリアルに触れながら、生と死が不断に転換し合う、ダイナミックに揺れ動く世界を生きてきたのだ。
世界に堂々たる非人を取り戻すことによって、網野さんは人間を狭く歪んだ「人間」から解放するための歴史学を実現しようとしたのである。「百姓」を「農民」から解放する。人民を「常民」から解放する。この列島に生きてきた人間を「日本人」から解放する。そして列島人民の形成してきた豊かなCountry’s Beingを、権力としての「天皇制」から解放する。こうして網野善彦のつくりあげようとした歴史学は、文字通り「野生の異例者」としての猛々しさと優雅さをあわせもった、類例のない学問として生み出されたのである。
甲州人バンザイ!(笑)
「中沢という家も、たぶん網野という家も、山梨に住みついてきたおかげで、差別を体験しなかったというだけなんだよ。網野の家は丹後の出身だと、ぼくはにらんでいる。日本海に面した小さな漁師町から、甲州にやってきたのが網野の一族だったんだよ、きっと。中世にはあのあたりは武田の所領だった時代があるからね。アミというからには時宗と関係していたかもしれない。あきらかに常民ではないと思うよ。でも甲州では、中沢も網野も差別などはされなかった。ここなんだよ。ぼくが中世前期にはまだ非人は差別などされていなかった、聖なるものにかかわる特別な人たちであるという意識はあっても、賤しい人間として差別などされてなかった、そういう差別が本格的にはじまるのは南北朝ののちだ、というようなことを書くと、関西の歴史学者なんかから猛烈な反発がやってくるというのは、君も知っているだろう。非人の系譜に連なるものが、今にいたるまで差別されたことなどない世界というのを、そういう歴史学者は体験したことがないんだよ。貧しい甲州は、ヤクザとアナーキストと商人しか生まれない土地だと言われてきたけれど、そのおかげで、ほかのところでは消えてしまった原始、未開の精神性のおもかげが、生き残ることができたとも言えるなあ。貧しいということは、偉大なことでもあるのさ」
堂々たる自信をもって生きる非人。アイヌであり、イヌイットであり、真実の人間そのものである非人。これが網野さんの理想の世界をあらわす、ひとつの鮮明なイメージであった。網野さんは「非人」という概念そのものの近世的理解を、根底からくつがえそうしていた。その言葉に、豊かで肯定的な意味を、真新しく付与しようとしたのだ。非人=非人間は、自然との直接的な交歓のうちに生きる。エロチックな身体と直接性の精神をもって、職人として世界を自らの能力によって創造することのできる者たちだ。生の原理だけでできた、あらゆるものごとが媒介されている世界に生きている者たちを、近代のやり方で「人間」と呼ぶことにすれば、そこから排除された非人間たちは死のリアルに触れながら、生と死が不断に転換し合う、ダイナミックに揺れ動く世界を生きてきたのだ。
世界に堂々たる非人を取り戻すことによって、網野さんは人間を狭く歪んだ「人間」から解放するための歴史学を実現しようとしたのである。「百姓」を「農民」から解放する。人民を「常民」から解放する。この列島に生きてきた人間を「日本人」から解放する。そして列島人民の形成してきた豊かなCountry’s Beingを、権力としての「天皇制」から解放する。こうして網野善彦のつくりあげようとした歴史学は、文字通り「野生の異例者」としての猛々しさと優雅さをあわせもった、類例のない学問として生み出されたのである。










