先日従兄弟の葬儀に参列して、その折に喪主が酒を注いで回る事に違和感を覚えたと書いた。その折、先輩の方(師匠様)から山梨でも地域によって異なる風習(文化)があると教えられた。そして資料を送っていただいたので紹介したい。風習にはソレナリの理由があるのであろう、天命を全うしたような婆さんや爺さんなら話は分かるが若くして亡くなった人の葬式で酒を注がなければいけない喪主や親族の気持ちは考慮されなければならない。
どうしても酒なのであれば、各自に酒の商品券でも配ればよいのである。
悪しき風習は変えねばならない。そして未来に残すべき風習を皆で考えれば良いのである。
禁酒塔
JR身延線の甲斐常葉駅から、栃代川に沿った県道を2キロほど遡った右岸では最初の集落「大炊平(・おいだいら)」が私の故郷である。
県内においても難読地名の一つであると思われるが、由来については諸説がある。戦国の世 現在の学校のあるところは武田氏関係のとりでであり、その後方の炊事部門を担当したところであると言われているが、やほり地形から見ても「甲斐国誌」に記されているように、背後に山を背負っている「負い平」の方が妥当であろう。私説とすれば、地形的には、大古の時代に市ノ瀬との境をなしている山が大崩壊をおこし、栃代川へ押し出した土砂の上に集落が立地した「押し平」の転訛と思われる。
この集落の入口に一種変わった石碑が立っている。約四十センチ角、台座からの高さ約三メ〜トル、正面には「禁酒興国」と刻まれている通称「禁酒塔」である。
昔この最域は「飲む」 「打つ」の悪弊が強く、酒代あるいは博打の質に田畑を手離す者も多かったという。
大正の末、そんな状況を見かねて、私の祖父を中心とした有志が、署名血判をした連判状のもとに禁酒団を結成し、基金を積立て、数年後に建立したのがこの塔である。終戦まではこの禁酒運動も続いていたということであり、現在でも地区内の葬儀においては、一切洒は出していない。
筆者の祖父などもこの「禁酒団」を立ち上げるに当たり、葬儀を出して
いる家では悲しみの中にあるのに、酒を振る舞う、あるいは飲んで騒ぐなどとはいかがなものか・・・という考えもあったと聞いている。
どうしても酒なのであれば、各自に酒の商品券でも配ればよいのである。
悪しき風習は変えねばならない。そして未来に残すべき風習を皆で考えれば良いのである。
禁酒塔
JR身延線の甲斐常葉駅から、栃代川に沿った県道を2キロほど遡った右岸では最初の集落「大炊平(・おいだいら)」が私の故郷である。
県内においても難読地名の一つであると思われるが、由来については諸説がある。戦国の世 現在の学校のあるところは武田氏関係のとりでであり、その後方の炊事部門を担当したところであると言われているが、やほり地形から見ても「甲斐国誌」に記されているように、背後に山を背負っている「負い平」の方が妥当であろう。私説とすれば、地形的には、大古の時代に市ノ瀬との境をなしている山が大崩壊をおこし、栃代川へ押し出した土砂の上に集落が立地した「押し平」の転訛と思われる。
この集落の入口に一種変わった石碑が立っている。約四十センチ角、台座からの高さ約三メ〜トル、正面には「禁酒興国」と刻まれている通称「禁酒塔」である。
昔この最域は「飲む」 「打つ」の悪弊が強く、酒代あるいは博打の質に田畑を手離す者も多かったという。
大正の末、そんな状況を見かねて、私の祖父を中心とした有志が、署名血判をした連判状のもとに禁酒団を結成し、基金を積立て、数年後に建立したのがこの塔である。終戦まではこの禁酒運動も続いていたということであり、現在でも地区内の葬儀においては、一切洒は出していない。
筆者の祖父などもこの「禁酒団」を立ち上げるに当たり、葬儀を出して
いる家では悲しみの中にあるのに、酒を振る舞う、あるいは飲んで騒ぐなどとはいかがなものか・・・という考えもあったと聞いている。