無知な私は半藤さんや保阪さんの本で多くを学びました。
いかに権力が無謀に人々を殺していくのか。
二度と愚かな戦争を起こさないために。
いかに権力が無謀に人々を殺していくのか。
二度と愚かな戦争を起こさないために。
日々おやじが思う事。。。。。
エールがかなり良い作りだと評判である。
史実に基づいていない部分もあるだろうが、戦争という不条理を忘れないためには
良いドラマだと思う。
インパール戦の無謀、薬師丸ひろ子が歌う讃美歌、そして、長崎の鐘のシーン
アメリカが自らの神を殺した、被爆マリアと浦上天主堂
しっかりと画面の中にも登場していた。永井医師の病床には綺麗なマリア像。
記憶の残すために録画したモノを画像で保存した。
そして、是非 関連書籍も見て貰いたい。
前編
再放送があったので録画しておいた。リンクは前編となっているが後編はこちら
2019年 政府の公文書管理に関する多くの疑惑が問いかけられた時期 それにリンクもしている。
モリカケ桜 都合の悪い公文書は改竄破棄するという後進国並みな日本。
そして戦争という悲劇を非常に丁寧に描いている。
多くのメディアがしっかりと歴史を修正しないということを報道し続けないといけない。
最終話
16. 花びらは散っても花は咲き続ける
とうとう終わってしまいました。
最終話に再度オートキャンプシーン、そして桜並木を歩く家族 号泣
良いドラマでした。韓国ドラマはシリーズが長いのが良いのかもしれません。16話程度が多い?
時間の流れが良いですね。
多くの価値観が日本人(こう括るのがオカシイとは思いつつ)と共通なんでしょう。
今回は仏教の死生観が特に大きな役割をしているとは思います。
夫婦
家族
友人
社会
最終話のタイトルである、花びらは散っても花は咲き続ける
まさに時間の哲学、循環する時間、山岳信仰的なまたいつか戻って来るという示唆
人生の一回性と季節の回帰性(桜はまた来年咲く)
タイトル
1. 人生は何が起こるか分からない
2. 忘れられた季節
3. 死後に分かる"美しい人生"
4. どんな出来事も起こりうる
5. 偶然が運命に変わる瞬間
6. 死に直面した時 思い出すのは"家族"
7. 花が咲いて散る場所
8. 別れに不慣れな人たち
9. こんにちは あなたの光
10. あなたの場所には届かない
11. 与えられた"限りある人生"
12. 私が消えていく日々
13. 知らなかった話
14. あなたのせいじゃない
15. 私の人生の"明日"
今週(17日ー21日)のインサイトでのスペシャルインサイトのコーナーは
日米地位協定から60年
国会より上位の日米合同委員会、日本国憲法より上位の日米地位協定と揶揄される。
9条改憲の前にやる事あるだろう!! 横田空域を返せ!
まあ、ご存知ない方は摩訶不思議な日米地位協定とは何か聞いてみてはいかが?リンクからどうぞ。
軽い言葉が多い。加害者責任も権力の暴走にも言及せず。
英霊といわれながら、餓死、感染症で亡くなった先人。
軍令で強制移住させられたり、自死を強いられた人々。
以下記事
15日の全国戦没者追悼式での安倍晋三首相の式辞全文は次の通り。
◇
天皇、皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表、多数のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。
先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、戦陣に散った方々。終戦後、遠い異郷の地にあって、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などで、無残にも犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。
今、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆さまの尊い犠牲の上に築かれたものであることを、私たちは決して忘れることはありません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念をささげます。
いまだ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。 ご遺骨が一日も早くふるさとに戻られるよう、私たちの使命として全力を尽くしてまいります。
わが国は、戦後一貫して、平和を重んじる国として、ただ、ひたすらに歩んでまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。
戦争の惨禍を、二度と繰り返さない。この誓いは、昭和、平成、そして、令和の時代においても決して変わることはありません。平和で、希望に満ちあふれる新たな時代を創り上げていくため、世界が直面しているさまざまな課題の解決に向け、国際社会と力を合わせて全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。
終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆さまにはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。
ヒップホップで戦争を考える。凄い作品だ。昨年の敗戦記念日にアップされている。
https://youtu.be/gjXSIfB9t6I
飛行機ごと体当たりして死ねと
志願する者は自分で決めろ
大和魂見せろ
嫌だと思っていても
蔑むような白い目の
エグい同調圧力を想像すると
俺など臆病者
喜んで御国に奉公
心は涙そうそう
でもしょうがない
結果 前に出てたんだと思うよ
彼ら シナリオだと今は靖国にいて
アメリカの舎弟になった祖国を見てる
命じた上官 末長く生きて
家族 親戚 縁者に囲まれる死に目
顧みられず 忘れられる
鹿児島 知覧に行けよ
そこで俺らを待ってる
賛成か反対かじゃありません
やるせない想いと共にただ泣ける
俺は不満です 同じだけ不安です
1人のHIPHOPファンです
ただのエンターテイナー以上に何を語れるか
俺なりに それなりに考えてんだ
金髪の大男が何やら威張ってる
そいつに金払って守ってもらってる
奴らに払ってる金 俺らが払ってる
戦争を知ってる あの世代が去ってく
生き残ったことを恥じていた
寝言でうなされて謝っていた
墓まで持っていこうとしていた
あなたの恥は もう全部燃えました
殺していた 殺しを見てきた
仲間の肉を喰って生き延びて帰ってきた
黙り通した あなたの恥は
あなたの肉体に殉じて死にました
色は匂えど 散りぬるを
貴方がたの苦難を忘れずに生き抜くよ
我が世誰ぞ 常ならん
されど日差しは暖かく 春は花やぐ
有為の奥山 今日越えて
この声で 餞の言葉を添えて
浅き夢見じ 酔いもせず
滅び行く者共に 想いを寄せる
戦争を忘れて 家族と静かに暮らしたい 豊かになりたい
アメリカと喧嘩したのがそもそもの間違い
何故こうなったかとかは毎回曖昧
その頃に生まれたのが俺らの両親
教科書に墨を塗っていた教師
謳歌する自由の勝利
祖国は遠い残留孤児
同じ日本人
自分さえ良ければよいのが人間
いつも無かったことにする国民性
生まれ育った場所にて 異なる人生
罪と罰の終わりなき輪廻
あぁそんな時代もあったねと
後々振り返るための 犠牲になれと
ここじゃ言い尽くせない程の悲劇の果ての
具沢山の味噌汁を食べよう
いっぱい食べて大きくなれよ
兄弟喧嘩はやめろ 早めに寝よう
起きて東京にオリンピック観に出かけよう
帰りは新幹線も乗せてあげよう
何となく良いことが起きそうな 政府のスローガン
大盤振る舞い 乗らなきゃ損だ
田中角栄と周恩来 一億総中流
ノリノリなジェットコースター
気付けば初孫を抱いた お爺ちゃん
結びの一番 もうこんな時間
あれから負い目を残さずに生きてきた
ここまで来ればもう安心だ
ほらじいじの指の向こうの そうあれが
俺とお前だけが見送る今日の夕焼けだ
ギリ間に合えた 咲き誇るガーベラ
これぞ栄えある 物の哀れか
色は匂えど 散りぬるを
貴方がたの苦難を忘れずに生き抜くよ
我が世誰ぞ 常ならん
されど日差しは暖かく 春は花やぐ
有為の奥山 今日越えて
この声で 餞の言葉を添えて
浅き夢見じ 酔いもせず
滅び行く者共に 想いを寄せる
ノモンハンから インパール 白骨街道
ガダルカナル 渡る 飢餓海峡
置き去りにしたままの仲間が可哀想
それが頭から離れないと
口癖だった 丸まった背中
ポカポカ暖かなベランダ
あれは昔の話だって言ってたが
きっと ずっと 苦しんでたんだ
生き残ったことを恥じていた
寝言でうなされて謝っていた
墓まで持っていこうとしていた
貴方の恥は もう全部燃えました
殺していた 殺しを見てきた
仲間の肉を喰って生き延びて帰ってきた
黙り通した 貴方の恥は
あなたの肉体に殉じて死にました
いつも言う DON’T WORRY 本当に?
指揮官のほとんどが御曹司
そんな奴らを信じて特攻し
後々望んで死んだって言われてる若者に
最期は殆どが餓死 腹空かし
故郷の幻見て死んだ兵隊さんに
その兵隊さんにガマの外に追い出されて死んだ おじぃや おばぁ に
俺は 俺は 後々向き合える生き方をしてきただろうか?
俺は 赦される生き方をしているだろうか?
俺は うまく伝えられているだろうか?
俺が死んだら何人泣くべ?
征く、帰らぬ男は俺だ さようなら
逢いたい 話したい 無性に
もうプロペラが回っています
さぁ出撃です では兄ちゃん征きます
泣くなよ 静ちゃん がんばれ
ある意味良い番組でした。
残念なのは、現政権に対する論評が無かったこと(きっとインタビューは行われたのだとは思います)。
ナベツネさんの反戦の想いはこれまでの言動からも明らかであり、自身の戦争体験から来るものでしょう。
以前ブログでも紹介しましたが、朝日新聞主筆の若宮さんとの対談でもこんな事を語っていました。
読売新聞 渡辺恒雄会長との対談(月刊論座 2006年2月号)で渡辺さんは靖国神社の遊就館を見て仰天し、厳しい靖国批判に転じた。「軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神社が経営しているわけだ。そんなところに首相が参拝するのはおかしい」 A級戦犯の合祀についても「靖国神社に祀られている多くの人は被害者です。やはり殺した人間と被害者を区別しなければいかん」と痛烈だった。
web より
「渡辺恒雄 戦争と政治〜戦後日本の自画像〜」
70年にわたり戦後政治の表と裏を目の当たりにしてきた読売新聞グループのトップ・渡辺恒雄氏、94歳。今回、映像メディアによる初めてのロングインタビューが実現した。証言から浮かび上がるのは、歴代首相の“戦争体験”が、戦後日本に与えた影響である。戦争の記憶が薄れゆく戦後75年目の日本。戦後日本が戦争とのどのような距離感の中で形作られ、現在に何をもたらしているのか。渡辺氏の独占告白から立体的にひも解く。
6月にリニューアルオープンした東京大空襲・戦災資料センターへ行ってきた。ここは入館料と寄付だけで運営されている民営の施設で、規模は大きくないが展示にさまざまな工夫がある。
焼夷(しょうい)弾の模型が目を引いた。リニューアルに際し、より精巧なものに作り直したそうだ。
米軍が投下したのは小型の焼夷弾を38個束ねたもので、空中でバラバラになって住宅街を襲う仕組みだった。知識としては知っており、写真も見たことがあるが、模型を見て驚いた。思っていたより大きく、一発一発が、がっちりした筒形の鉄の容器に入っている。
空襲というと、炎が降ってくるイメージを持っていたが、それは誤りだった。着火するのは建物や地面に落ちた後で、空から降ってきたのはこの鉄のかたまりだったのだ。それも一晩に30万発。思わず身震いした。
戦争について取材をする中で各地の資料館や博物館を訪れてきたが、これまでは実物を展示することが大事だと思ってきた。唯一無二の本物がもつ力は大きいからだ。
だが、こうした模型から伝わるものも確かにあると実感した。体験を語る人が減っていく中、戦争を知らない世代に空襲のリアリティーを伝えるには、新しいアイデアが必要なのだ。学芸員の方によると、いまは新型コロナ対策のため触ることができないが、持ち上げて重さを実感できるようになっているという。
センターには空襲を受ける前の日常を伝えるコーナーがあり、そこに陸軍少年飛行兵募集のポスターが展示されていた。思わず足をとめたのは、私の父が陸軍少年飛行兵だったからだ。1944年に16歳で飛行兵学校に入校し、実戦を経験しないまま終戦を迎えた。
それもあって、以前から少しずつ陸海軍の少年兵のことを調べている。特に気にかかっているのが、海軍特別年少兵(特年兵)のことだ。
私は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島について取材し、本を書いたことがある。そのとき話をうかがった元兵士の中に、特年兵だった方がいた。彼は終戦のとき17歳だったという。私の父と同い年なのに、前線で戦い、捕虜になったと聞いて不思議に思った。
調べてみると、特年兵(正式名称は海軍練習兵だが、海軍内でもこう呼ばれていた)の制度が始まったのは42年。それまでは陸海軍とも少年兵の応募年齢を満15歳以上としていたが、特年兵は満14歳から志願できた。1期生は43年11月に教育期間を終え、第一線の部隊に配属されている。もっとも若い者は、現在でいえば高校1年生の年齢である。
1期から4期までの総数は約1万7200人。そのうち5000人余りが戦死している。1期と2期に限れば、戦死者の比率は70%に及ぶという。
これまで何人かの元特年兵に話を聞いてきた。特攻艇「震洋」の基地にいたある人は、終戦の日、上官から「頓服だ。風邪をひきそうになったら飲め」と言って薬を渡されたそうだ。
「青酸カリでした。風邪をひくというのは、自白するという意味です。子供だから、米軍がやってきたら何でもしゃべってしまうと思われたのでしょう」
すぐに別の上官が回収に来たが、そのときほど悔しく、またむなしい気持ちになったことはないという。
特年兵の教育を担当した元大佐にも会いに行った。その人は少年たちが自ら記入した書類を大切に保管していた。見せてもらうと、志望動機の欄には、ほとんどの者が「お国の役に立ちたいから」と書いていたが、同じくらい多かったのが「普通学を学べるから」というものだった。普通学とは何なのか元大佐に尋ねたら、旧制中学で学ぶ一般科目のことだという。
特年兵になれば、軍事だけではなく普通学も学ぶことができると軍は宣伝した。そのため、成績優秀だが経済的な事情で上の学校に進むことのできない少年たちが多数応募してきたそうだ。1期生は採用人数3700人に対し、3万数千人の応募があった。
黄ばんだわら半紙の書類をめくるたびにあらわれる「普通学」の文字。旧制中学の生徒と同じ勉強がしたくて、軍に志願した少年たちがいた。これもまた、のちの世代が知っておくべき戦争のリアルである。=毎週日曜日に掲載
面白かったか?と聞かれれば、それなりに面白かったと答える。かな。
気になるのは多様性を訴えながら、最後はナショナリズムに帰結するの?という感じ。
国家とか国境とか脳が作り出した枠組みを若い人々が愚かな分断や戦争を乗り越え
そして飢饉、自然災害をも共同で克服していく未来を夢見て実行してほしい。
私たち大人が出来なかった(しようとしなかった)事を。
さすが養老先生なのである。都市化、脳化社会を綴っています。ブレない思想です。
一部記事より
「明治政府は富国強兵というスローガンを掲げた。強兵は敗戦で消えたが、富国は残った。軍事と経済は「ああすれば、こうなる」すなわち予測と統御の典型である。予測と統御は意識の特徴的な機能である。日本の「近代化」とは意識化、都市化であり、それには無秩序の排出が必要である。具体的にそれを担ったのがエネルギーであろう。石油を消費して、世界を統御する。世界には秩序が成立するが、同時に無秩序が排出される。それが地球温暖化を招く。まことに理屈に合っているというしかない。」
「アップルの創始者スティーヴ・ジョブズはStay home.ではなく、Stay hungry, Stay foolish.とスタンフォード大学の卒業式の式辞で述べた。その真意は捉えにくい。ただし式辞全体をネットで聞くことができる。素晴らしいスピーチというべきであろう。その中で彼は言う。「夜には死ぬという前提で毎日を始める」。コロナは死という生の前提を各人の目前にもたらした。これで人と人が構成する社会が成熟しないはずがない。それを期待して、本稿を終える。」
一応ウイルス研究をしてきた者として備忘録としておこう。リンクはジョンホプキンス大学のデータベース
2020年7月13日15時40分時点
世界での感染者数
129100357
死者数
569128
感染者数のベスト3
US
330万
Brazil
180万
India
87万
死亡者ベスト3
US
13万5千
Brazil
7万2千
UK
4万4千
日本
感染者数
21113
死者数
981
故中村克郎先生の想いを聞いた者として永遠の戦争放棄を願っています。
以下記事
太平洋戦争で戦死した学生たちの手記などを集めた「きけわだつみのこえ」に収められている中村徳郎さんの日記などの常設展示が出身の甲州市で始まりました。
甲州市出身の中村徳郎さんは、東京大学在学中に学徒出陣して25歳のときにフィリピンで戦死し、中村さんが隠れて弟に渡した日記や家族への手紙は「きけわだつみのこえ」に収められています。
甲州市は去年3月、中村さんの日記や手紙など47点を市の文化財に指定し、戦争の恐ろしさを改めて知ってもらおうと、戦後75年にあわせて13日、甲州市中央公民館に常設展をオープンしました。
このうち、出征が決まった中村さんが昭和19年に家族に宛てた最後の手紙は「運命の皮肉からこういうことになりました」とつづられ、戦争の不条理さを感じられる資料です。
また、最後の面会で弟に手渡した手記は、生きたいと願いながらも戦争に赴かなければならない無念さなどが書かれています。
甲州市教育委員会の保坂一仁教育長は「戦争を経験した人が少なくなるなか、資料を通じて平和の尊さや中村さんの気高い魂を知ってほしい」と話していました。
常設展は甲州市中央公民館で月曜日を除く午前9時から午後5時まで無料で観覧できます。
きけわだつみのこえ より
中村徳郎 大正7年(1918)生まれ 昭和17年10月 東京帝国大学理学部地理学科入学 同月 千葉県習志野にて入営 大学の講義を一度も受けることなく戦場へ
昭和19年6月5日
父上、母上に。
長い間あらゆる苦難と戦って私をこれまでに育んで下さった御恩はいつまでも忘れません。しかも私は何も恩返しをしませんでした。数々の不幸を御赦し下さい。思えば思うほど慙愧に堪えません。
南極の氷の中か、ヒマラヤの氷河の底か、氷壁の上か、できればトルキスタンの砂漠の中に埋もれて私の生涯を閉じたかったと思います。残念ですが運命の神は私に幸いしませんでした。
総ては悲劇でした。しかし芥川も言っているように、親子となった時に既に人生の悲劇が始まったのだということは、いみじくも本当だと思いました。気の毒なお父さんお母さんに恵みあれかし。
中村徳郎
昭和19年6月20日午前8時
父上母上様。弟へ。
門司市大里御幸町 辰美旅館 徳郎
何もかも突然で、しかも一切がほんの些細な運命の皮肉からこういうことになりました。しかし別に驚いておりません。克郎(弟)に一時間なりとも会うことが出来たのはせめてもでした。実際は既にその前日にいなくなっているはずでした。そうしたら誰にも会えなかったのです。
中略
最も伴侶にしたかった本を手元に持っていなかったのは残念ですが致し方ありません。それでも幾冊かを携えてきました。
中略
今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格をもった「人間」が、その意思も意志も行為も一切が無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもかわらない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくないと思います。
ともかく早く教室へ還って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。こうやっていると、じりじりと刻みに奪われてゆく青春を限りなく惜しい気がしてなりません。自分がこれからしようとしていた仕事は、日本人の中にはもちろんやろうという者が一人もいないと言ってよいくらいの仕事なのです。しかも条件に恵まれている点において世界中にもうざらにないくらいじゃないかと思っています。自分はもちろん日本の国威を輝かすのが目的でやるのではありませんけれども、しかしその結果として、戦いに勝って島を占領したり、都市を占領したりするよりもどれほど眞に国威を輝かすことになるか計りしれないものがあることを信じています。
自分をこう進ましめたのは、いうまでもなく辻村先生の存在が与って力ありますが、モリス氏の存在を除くことが出来ません。氏は自分に、真に人間たるものが、人類たるものが何を為すべきかということを教えてくれました。また学問たるものの何者たるかを教えてくれたような気がします。私はある夜、西蔵(チベット)の壁画を掛けた一室で、西蔵の銀の匙で紅茶をかきまわしながら、氏が私に語った"Devote yourself to Science."という言葉を忘れることが出来ません。
大西暢夫さんの連載
岐阜県の旧徳山村(現・揖斐川町)が日本最大のダムの底に沈んで13年になる。八つの集落のうち唯一、水没を免れた最奥地の門入(かどにゅう)に、廣瀬(ひろせ)ゆきえさんは最後の一人になるまで暮らし続けていた。
お蚕さんを育て、糸まで取る仕事を4代にわたって西村さん一家は続けている=滋賀県長浜市で
門入から北海道真狩村へ向かった開拓団の2世のもとへ嫁いだ。しかし終戦後、一家で村に戻ることになる。後継者が絶えそうだった廣瀬家を継ぐためだった。ゆきえさんの話は、いまの時代に生きる僕たちにとって、過酷でありながら、新鮮な話題ばかりだった。
その一つに、滋賀県の近江高山(現・滋賀県長浜市)へお蚕さんの繭を運ぶ話がある。ゆきえさんがまだ14歳の幼き時だ。門入から、ホハレ峠を越え、坂内村(現・揖斐川町)の川上に出る。さらに鳥越峠を越え、近江高山(長浜市)に到着する。何日もかかる物流の峠道だった。
「その取引先に6尺の大男がおってな」という言葉だけを頼りに、僕は近江高山に向かった。それらしき家をようやく探し当て、6尺くらいの大男の息子に出会うことができた。息子といっても80歳を超えていた。
「この辺りは、揖斐郡の坂内村や徳山村の人たちに世話になった。山越えをし、交流は県をまたいだ。街の人からは想像がつかん山のルートだが、大勢の人が繭を運んでくれた。しかし今じゃ、養蚕農家は1軒だけになってしまった」
その1軒、4代目の西村英次さん一家がお蚕さんを育て、糸取りまでを行っていた。「ここは滋賀県内でも養蚕の盛んな地域でね。春糸は和楽器の弦に使い、秋糸は着物などに使うんだよ。年に2回、糸を取っている」
季節によって絹糸の用途に違いがあることに驚いた。糸に旬の季節があるというのだ。春、桑の葉の柔らかい新芽を食べるお蚕さんと、秋の硬い葉っぱを食べるお蚕さんとでは、吐き出す繊維の手触りが違う。完成した絹糸を触らせてもらうと違いがよくわかった。春糸は柔らかくて、しなやかな手触りだ。奏でる音が違うらしい。
生き物が吐き出す繊維が、こうした形に変わり、人の生活に欠かせないものになる。さらに、真綿が盛んだった集落がすぐ近くにあり、そこには綿を引っ張っている老夫婦が、1軒だけ残っている。
「真綿ってお蚕さんだって知っているよね?」
そんな常識にややたじろいだ。若い世代は、その常識を知らない人が多い。
「綿って、綿、ですよね」
真綿はお蚕さんからできている動物性だ。
徳山村のゆきえさんの言葉から、いまも残る手技につながった。ものがあふれている現代の暮らしに、命と向き合いながら丁寧な仕事をする家族は輝きに満ちていた。(写真・文 大西暢夫)
◇
さまざまな手仕事の現場では、職人たちが互いに不思議な縁で結びつき、原材料などとなる自然の恵みを循環させながら無駄なく使いきる仕組みが出来上がっています。長年の取材で見えてきた社会の「大きな円」を描きます。=次回は5月23日掲載
■人物略歴
大西暢夫(おおにし・のぶお)さん
作家、写真家、ドキュメンタリー映画監督。1968年生まれ、岐阜県池田町在住。ダム湖に沈む岐阜県徳山村をテーマにした著作と同名映画の「水になった村」を発表。近著は「ホハレ峠」「お蚕さんから糸と綿と」など。映画「オキナワへいこう」は、自主上映活動が全国で展開されている。