【上高地の1世紀 歩みとこれから】А 嵎欷遏廚函嵳用」揺れ続け 国立公園指定 戦後はダム建設計画|信濃毎日新聞デジタル





上高地でのダム計画 元官僚が反対の旗振り 
公務員の矜持だね。

「■第一部 観光地・上高地の軌跡

 「梓川土地改良区内の村民は日夜是(これ)が開発を考察した結果期せずして上高地ダムを建設する議を決したのであります」

 1954(昭和29)年、社会資本整備を議論する県総合開発審議会に、農業用水の確保を望む梓川下流域の住民から陳情書が提出された。内容は、太平洋戦争中に当時の農林省が調査していた「上高地ダム」の建設推進。県は56年、水力発電や農業用水の確保、治水を目的とした上高地ダム建設を盛った「中信地区総合開発計画」をまとめた。

 県立歴史館(千曲市)に当時の計画概要書が残る。それによると、上高地ダムは岩石や砂利を積み上げる「ロックフィルダム」で高さ約45メートル、貯水量7400万立方メートル。島々谷に建設する3カ所の発電所は最大出力12万4200キロワット。ダム候補地として河童橋付近、明神池の下流側と上流側の3地点が概要書に記されている。

 庁内には異論もあったが、県は前のめりだった。50年には国土総合開発法が制定され、戦後復興に向けた「大義」もあった。他方、国立公園を所管する当時の厚生省はダム建設を認めない立場。56年10月の信濃毎日新聞の記事で、厚生省は「自然景観を将来に保存するためには上高地にダムを建設し人工湖をつくることには反対だ」としていた。

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 上高地ダム建設の反対運動の旗振り役となった人物がいる。当時の国立公園協会理事長で、日本自然保護協会初代理事長の田村剛(1890〜1979年)。旧内務省職員だった田村は米国などを視察し、日本の国立公園制度の確立に尽力した。国立公園指定以前の上高地を景勝地として全国に知らしめた「日本新八景」の選定にも携わった。

 新八景は27年、大手新聞社が主催し、国民による投票などで渓谷や湖沼など各8部門で1位の名所を決めた。当時、一般に広く知られていなかった上高地は投票で渓谷部門の11位。1位は天龍峡(飯田市)だったが、選考過程で一転、上高地がトップに躍り出た。田村の他、日本初の林学博士とされる本多静六、日本山岳会の創始者の一人である小島烏水(うすい)などの知識人が選考委員に名を連ね、上高地を強く推したとされる。新八景に選ばれた翌28年に国の名勝・天然記念物に、34年に国立公園に指定された。

 日本自然保護協会の現理事長の亀山章さん(78)=東京=によると、当時は日光東照宮(栃木県)や天橋立(京都府)といった歴史文化を感じさせる景観が評価され、「原生的で手付かずの自然景観が美しいとする価値観は根付いていなかった」。国立公園制度の成立を念頭に「日本の新しい風景観の象徴として上高地が選ばれた」とみる。

 田村は56年、上高地ダム建設反対の懇談会に出席した。関係団体で「上高地保存期成連盟」をつくり、ダム反対運動へのろしを上げた。翌57年7月、奈川渡ダムの建設計画へ移行させる案を県が発表し、上高地ダムは中止が決定。現地の地質調査結果から、建設が技術的に困難と判断した。反対運動との激しい衝突は見ないまま、ダムによる水没を免れた。

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 上高地はその後、75年にマイカー乗り入れ規制が始まり、94(平成6)年のピーク時には年200万人の観光客を数えるまでになった。第1部は、「保護」と「利用」の間で揺れ続けながら有数の山岳リゾートとなった歩みをたどり、現在を見つめる。」