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「日本国紀」読者こそ読んでほしい 「南京大虐殺はウソ」論を検証 | 毎日新聞





やはり書いておくべきだろう。単行本に続いて文庫版も売れ行き好調、作家・百田尚樹さんの「日本国紀」(幻冬舎)の「南京大虐殺」否定論だ。中国による香港やウイグル族らへの弾圧が報じられる今である。自国の過去の人権じゅうりんに向き合わず、他国のそれを批判していいのだろうか。1次資料や研究者の取材に基づき、否定論を検証する。【吉井理記/デジタル報道センター】
「南京大虐殺はフィクションです」

 「否定論を語る人の特徴は虐殺を記録した1次資料、つまり当時南京で事件の渦中にいた外国人の記録類はもちろん、日本軍の戦闘詳報や将兵の陣中日記などを無視することです。この本も相変わらずですね……」


 深々とため息を漏らすのは南京事件研究の第一人者で都留文科大名誉教授、笠原十九司(とくし)さん(77)である。

 まず、ざっくり南京大虐殺をおさらいしておこう。日中戦争の開始5カ月後、上海を攻略した日本軍(中支那方面軍)が中国国民党政府の首都・南京を陥落させた1937年12月13日前後から38年2〜3月、南京の都市部や農村部で中国兵捕虜や住民らを殺害し、強姦(ごうかん)などを重ねた事件だ。

 犠牲者数は不明だ。戦勝国による東京裁判では20万人以上、国民党政府が設置し、中国戦線の戦争犯罪を裁いた南京軍事法廷では30万人以上とされ、日本側研究では数万〜20万人などと推計されている。
銃剣を突きつけられ、後ろ手に縛られる中国兵捕虜の写真。毎日新聞社所蔵。報道しようとして軍の検閲を受けたが掲載不許可になった=中国・南京で1937年12月13日ごろ
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銃剣を突きつけられ、後ろ手に縛られる中国兵捕虜の写真。毎日新聞社所蔵。報道しようとして軍の検閲を受けたが掲載不許可になった=中国・南京で1937年12月13日ごろ

 そこで百田氏の否定論である。文庫版下巻では7ページにわたって展開される。<日本軍による南京占領の後、『30万人の大虐殺』が起きた、という話がありますが、これはフィクションです>(194ページ)との一文で始まり、根拠として主にこんな「事実」を挙げるのだ。
否定論の「証拠」

 ‘邉大虐殺は中国国民党が宣伝した事件で、<「南京大虐殺」を世界で最初に伝えたとされ>、事件をまとめた本「戦争とは何か」を出した豪人記者、ティンパーリは<実は月1000ドルで雇われていた国民党中央宣伝部顧問であったことが後に判明しています>(194〜195ページ)

 ∪こΔ棒莇遒韻道件を報じたニューヨーク・タイムズのダーディン、シカゴ・デーリー・ニューズのスティールの両記者は<南京陥落直後に南京から離れています(つまり伝聞)>(195ページ)

 F邉には欧米の在外公館などが存在し、各国の特派員も大勢いたのに<大虐殺があったと世界に報じられてはいません>(同)

 ぁ稙邉安全区国際委員会(記者注・南京戦の開始後も南京に残った米独の企業関係者や大学教授らが安全区を設け、中国の市民らを保護した組織。「南京安全区」は以下、安全区)の人口調査によれば、占領される直前の南京市民は約20万人>だが<(占領1カ月後には)25万人に増えているのです>(同)

 ァ磧陛時の報道写真には)南京市民が日本軍兵士と和気藹々(あいあい)と写っている日常風景が大量にあります>(196ページ)

 Α磧米中戦争は8年続いたが)南京市以外での大虐殺の話はありません(中略)とりわけ日本軍は列強の軍隊の中でも極めて規律正しい軍隊で、それは世界も認めていました>(198ページ)

 А稘豕裁判でもおかしなことがありました(中略)30万人も殺したはずの南京大虐殺では、南京司令官の松井石根大将一人しか罪に問われていないのです。規模の大きさからすれば(中略)何千人も処刑されているはずです>(198〜199ページ)

 これらは事実か? まず,澄3涕兇気鵑療え。
誘導、誤りの数々


 「最初から間違えています。△脳椽劼靴泙垢、南京事件を最初に伝えたのはティンパーリではありません。また彼が中国国民党の宣伝工作として本を出したという説は、何度も否定された話です。繰り返せば、本の刊行は38年ですが、彼が国民党の顧問になるのは翌39年です。そもそも本は日本軍の暴虐に怒ったティンパーリが、事件を目撃した外国人の日記類や安全区の文書などをまとめたものですが、百田氏は宣伝工作のために本を出したように誘導した。ティンパーリの名誉をも毀損(きそん)しています」

 豪州在住のティンパーリ家の親族の協力を受けつつ、原資料を調べて「工作説」を否定した歴史研究者、渡辺久志さんの連載(季刊「中帰連」02年夏〜03年春号)が最も詳しい。国会図書館などで読める。

 次は△澄「南京陥落は37年12月13日ですが、両記者は15日に南京を脱出するまで日本軍の暴虐を自分で見聞きして報じました。<伝聞>とはひどいウソです」

 事件を最初に伝えたスティールは15日、脱出時に乗った米艦の無線で一報を送り、同日付シカゴ紙に「南京大虐殺」の見出しで「日本兵が中国人の一群を処刑する光景を目撃した」などと報道。17日付記事では「日本軍が住民を突き刺すのを見た」とも報じた。ダーディンも18日付ニューヨーク紙で「捕虜全員を殺害 日本軍 民間人も殺害」などの見出しで見聞を伝えている。「南京事件資料集1」(青木書店)に全文がある。

 ちなみに百田氏、単行本では根拠を示さず<ダーディンは後に自分の書いた記事の内容を否定している>(単行本初版369ページ)と書いたが、86〜87年にダーディンにインタビューした笠原さんに「ウソだ」と指摘されたためか、文庫版では削除した。
ナチス外交官も怒った日本軍の暴虐

 はどうか。「報道関係者は南京戦前に各国の外交団とともにほとんどが脱出し、陥落時に残っていたのは前出の2人のほかは英ロイター通信記者ら3人だけでした。彼らも後に脱出しますが、事件を世界に報じています。『報じられていません』なんて、よくこんなウソがつけますね」

 それだけではない。記者の退去後も南京には22人の外国人が残り、安全区で市民を救護しつつ、日本軍の暴虐を世界に知らせた。
作家の百田尚樹さん=大阪市北区の毎日新聞大阪本社で2013年2月8日、小関勉撮影
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作家の百田尚樹さん=大阪市北区の毎日新聞大阪本社で2013年2月8日、小関勉撮影

 「米国人宣教師のマギーが被害の様子をひそかに撮影した16ミリフィルムが持ち出され、後に各地で上映されて世界に衝撃を与えました。日本の同盟国だったナチス・ドイツの南京大使館分館のローゼン書記官も38年2月10日付文書で残虐行為の記録とともにフィルムの複製を本国に送るよう手配し、『ヒトラー総統にご覧頂きたい』とまで記しました」

 ほかの外国人の記録も含め、前出の資料集や「ドイツ外交官の見た南京事件」(大月書店)、安全区委員長でドイツ人ビジネスマンだったラーベの日記(「南京の真実」講談社)に詳細がある。
「和気あいあい」の現実

 次はい任△襦「否定論のウソの典型です。『20万人』は37年12月17日付の安全区の文書などにある数字ですが、これは南京の人口ではなく、虐殺を逃れ、安全区に避難した難民らの推定数であり、『25万人』(38年1月28日付安全区文書)はそのピーク時の数です。占領直前の南京市の人口は『50余万』(37年11月23日に南京市政府が国民党政府に送った記録)でした」

 ちなみに南京戦前の36年末の南京市の人口は100万6968人(41年刊の南京日本商工会議所編「南京」所収の統計)だが、陥落8カ月後の38年8月は30万8546人。戦禍のすさまじさがうかがえる激減ぶりだ。

 イ呂匹Δ。「確かに当時、南京市民が『和気靄々』とするような写真ばかり報じられました。当然です。軍の検閲で『我軍に不利なる記事写真』『惨虐なる写真』など(37年9月9日、陸軍省「新聞掲載事項拒否判定要領」)は報道されなかったのです」

 南京の現実とかけ離れた日本での報道を耳にし、安全区で救護活動をしていた米国人外科医、ウィルソンは37年12月21日付の手紙で「本当のニュースが伝えられたら大きな動揺が起こるはずだ」と憤ったし、南京戦司令官、松井石根その人からして38年2月6日の日記で「支那人民の我軍に対する恐怖心去らず」と記したのが実情だった。前出の「南京事件資料集1」や「南京戦史資料集2」(偕行社)に詳しい。
「老若男女問わず全員銃殺」

 次はΔ澄「これもひどいウソです。37年秋の上海攻略後、南京に進撃した時点で軍紀は乱れ、虐殺や放火、略奪などが始まっていたことは兵士の日記で明らかです」

 日記の一例の抜粋である(以下、引用する資料は読みやすく改めている)。第13師団歩兵65連隊の堀越文男伍長。<帰家宅東方に至る。すなわち、支那人女子供のとりこあり、銃殺す。むごたらしきかな、これ戦いなり>(37年10月6日)

 <捕虜ひき来る、油座氏これを切る。夜に近く女2人、子供ひとり、これも突かれたり>(同11月9日)

 第16師団歩兵20連隊の牧原信夫上等兵。<武進は抗日、排日の拠点であるから全町掃討し、老若男女を問わず全員銃殺す>(同11月29日)

 そんな日本軍が殺到した南京である。軍首脳も自軍の暴虐に衝撃を受け、参謀総長の閑院宮載仁親王が38年1月4日付で「軍紀風紀において忌々しき事態の発生近時ようやく繁を見、これを信ぜざらんと欲するもなお疑わざるべからざるものあり」などと異例の訓戒をする事態に陥ったのだ。「京都師団関係資料集」(青木書店)、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」(大月書店)などに詳しい。

 最後はА「東京裁判の基本で間違っています。南京事件で罪に問われたのは中支那方面軍司令官の松井石根だけではありません。当時外相の広田弘毅、同軍参謀副長の武藤章も罪に問われ、広田は死刑になりました(武藤は別の虐殺事件などで死刑)。B、C級戦犯のみの将兵は別に裁かれ、南京事件でも南京軍事法廷で当時の師団長らが死刑になっています」
「日本国紀」が触れない事実

 ……というわけで「事実」はどれも誤りか不正確である。ならば百田氏が触れない事実、つまり1次資料を確認しておこう。Δ慮‐擇脳し紹介した。

 「南京戦に参加した全部隊のうち、当時の戦闘詳報や陣中日誌類が明らかになっているのは3分の1程度に過ぎません。それでも虐殺に触れた多くの資料があります」

 ごく一例である。

 <だいたい捕虜はせぬ方針なれば、片端よりこれを片付くることとなしたるも(中略。自身の師団で1万5000人の捕虜を「処理」したなどとし、投降してきた七、八千人の捕虜も)これを片付くるには相当大なる壕を要し……>(中島今朝吾・第16師団長の37年12月13日の日記)

 <捕虜総数1万7025名、夕刻より軍命令により捕虜の3分の1を江岸に引き出し機並1大隊)において射殺す>(第13師団歩兵65連隊の遠藤高明少尉、同12月16日の日記)

 <(捕虜5000人を射殺し)銃剣にて思う存分突き刺す(中略)ウーンウーンとうめく支那兵の声、年寄りもいれば子供もいる、一人残らず殺す>(同師団の山砲兵19連隊の黒須忠信上等兵、同日の日記)

 <南京攻略時において約4、5万に上る大殺戮、市民に対する略奪、強姦多数ありしことは事実なるがごとし>(「岡村寧次大将陣中感想録」38年7月13日の項。岡村が中支那方面軍特務部長・原田熊吉少将らに聴取した記録)

 安全区に残った外国人の記録は読むのもつらい。米国人宣教師フィッチは37年12月17日付日記で「略奪、殺人、強姦は衰える様子なく続く。ざっと計算しても昨夜から今日昼にかけて1000人の婦人が強姦された」とし、強姦の際に「5カ月の赤ん坊」が窒息死させられたと記した。前出の資料集や笠原さんの著書「南京事件」(岩波新書)などに詳しい。
「日本の誇り」とは

 「1次資料はなかったことにはできません。そもそも南京大虐殺があったかどうかという論争はとうに決着がついている話です」

 06年に百田氏と親しい安倍晋三首相(当時)が設置した「日中歴史共同研究」の日本側報告書(10年公表)でも「(捕虜や市民などへの)集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪や放火も頻発した」と総括した。報告書には、南京事件関連の基礎資料として笠原さんの著書複数も記された。

 ちなみに日本側座長を務めた安倍氏のブレーン、北岡伸一東大名誉教授は「不快な事実を直視する知的勇気こそが日本の誇り」(「外交フォーラム」10年4月号)と述べている。記者も同感だ。

 「それでも否定論を語る本は後を絶ちません。そういう本を喜ぶ人がいるのでしょうが、日本だけが世界と隔絶した歴史認識を持つようになるのは実に恐ろしいことです。だからこそ百田氏のような本が登場するたび、そのウソをいちいち批判しなければならないのです。大変な労力を費やしますが……」

 1行のウソは1分で書けるが、それがウソであることの証明は何百倍も手間がかかる。記者もこの記事で痛感した。それでもウソは否定しなければならない。このような時代だからこそ。