図書館本

志村氏の佐藤垢石の評伝(畸人・佐藤垢石 1978)が面白かったのと
郷土の名士である石橋湛山にも興味があったので読んでみた。

志村氏は大正5年 湛山と同郷(増穂)の生まれ。石橋湛山(1884年〈明治17年〉9月25日 - 1973年〈昭和48年〉4月25日))

湛山氏の幼少期からの生活情報等をこまめに収集している。
そしてあまりに有名ではあるが湛山が2度落第したおかげで、多大な薫陶を受けることになる
大島正健校長が山梨県立第一中学校(後の甲府中学、現甲府一高)赴任する。(1901年明治34年)

この大島校長が札幌農学校のクラーク博士第一期生で、クラークに直接学んでいる。
また、卒業後も第一高等学校に2度不合格している。

早稲田卒業後は東洋経済新報を手伝う事になる。

鎌倉町(現鎌倉市)に居を構え(3人の虚弱の子供のため)、色々と活躍することになる。町議にもなる。神奈川の水道問題に貢献

大正10年にすでに軍縮を提言(37歳)その後も湛山の主張をかばった町村金五氏ら。
昭和9年には海外向け月刊誌「オリエンタル・エコノミスト」を出版
早川徳次、望月小太郎ら山梨同郷の協力なサポート

静岡から国政へ(湛山の父・日布 身延日蓮宗の主力地域)

湛山首相誕生 山梨の議員で湛山に投票したのは内田常雄だけだった。
健康を害して短命に終わる石橋内閣(評者注:孫崎亨氏のある種の陰謀論、岸が絡む、もあるが)
公には老人性肺炎とされている。
政界引退後 中国、ソ連との交流、貿易拡大に尽力

畸人・佐藤垢石
志村秀太郎
講談社
1978-02T



石橋湛山