時代の風:戦争のリアルを知る 学びたかった少年兵=梯久美子・ノンフィクション作家 - 毎日新聞



6月にリニューアルオープンした東京大空襲・戦災資料センターへ行ってきた。ここは入館料と寄付だけで運営されている民営の施設で、規模は大きくないが展示にさまざまな工夫がある。

 焼夷(しょうい)弾の模型が目を引いた。リニューアルに際し、より精巧なものに作り直したそうだ。

 米軍が投下したのは小型の焼夷弾を38個束ねたもので、空中でバラバラになって住宅街を襲う仕組みだった。知識としては知っており、写真も見たことがあるが、模型を見て驚いた。思っていたより大きく、一発一発が、がっちりした筒形の鉄の容器に入っている。

 空襲というと、炎が降ってくるイメージを持っていたが、それは誤りだった。着火するのは建物や地面に落ちた後で、空から降ってきたのはこの鉄のかたまりだったのだ。それも一晩に30万発。思わず身震いした。

 戦争について取材をする中で各地の資料館や博物館を訪れてきたが、これまでは実物を展示することが大事だと思ってきた。唯一無二の本物がもつ力は大きいからだ。

 だが、こうした模型から伝わるものも確かにあると実感した。体験を語る人が減っていく中、戦争を知らない世代に空襲のリアリティーを伝えるには、新しいアイデアが必要なのだ。学芸員の方によると、いまは新型コロナ対策のため触ることができないが、持ち上げて重さを実感できるようになっているという。

 センターには空襲を受ける前の日常を伝えるコーナーがあり、そこに陸軍少年飛行兵募集のポスターが展示されていた。思わず足をとめたのは、私の父が陸軍少年飛行兵だったからだ。1944年に16歳で飛行兵学校に入校し、実戦を経験しないまま終戦を迎えた。

 それもあって、以前から少しずつ陸海軍の少年兵のことを調べている。特に気にかかっているのが、海軍特別年少兵(特年兵)のことだ。

 私は太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島について取材し、本を書いたことがある。そのとき話をうかがった元兵士の中に、特年兵だった方がいた。彼は終戦のとき17歳だったという。私の父と同い年なのに、前線で戦い、捕虜になったと聞いて不思議に思った。

 調べてみると、特年兵(正式名称は海軍練習兵だが、海軍内でもこう呼ばれていた)の制度が始まったのは42年。それまでは陸海軍とも少年兵の応募年齢を満15歳以上としていたが、特年兵は満14歳から志願できた。1期生は43年11月に教育期間を終え、第一線の部隊に配属されている。もっとも若い者は、現在でいえば高校1年生の年齢である。

 1期から4期までの総数は約1万7200人。そのうち5000人余りが戦死している。1期と2期に限れば、戦死者の比率は70%に及ぶという。

 これまで何人かの元特年兵に話を聞いてきた。特攻艇「震洋」の基地にいたある人は、終戦の日、上官から「頓服だ。風邪をひきそうになったら飲め」と言って薬を渡されたそうだ。

 「青酸カリでした。風邪をひくというのは、自白するという意味です。子供だから、米軍がやってきたら何でもしゃべってしまうと思われたのでしょう」

 すぐに別の上官が回収に来たが、そのときほど悔しく、またむなしい気持ちになったことはないという。

 特年兵の教育を担当した元大佐にも会いに行った。その人は少年たちが自ら記入した書類を大切に保管していた。見せてもらうと、志望動機の欄には、ほとんどの者が「お国の役に立ちたいから」と書いていたが、同じくらい多かったのが「普通学を学べるから」というものだった。普通学とは何なのか元大佐に尋ねたら、旧制中学で学ぶ一般科目のことだという。

 特年兵になれば、軍事だけではなく普通学も学ぶことができると軍は宣伝した。そのため、成績優秀だが経済的な事情で上の学校に進むことのできない少年たちが多数応募してきたそうだ。1期生は採用人数3700人に対し、3万数千人の応募があった。

 黄ばんだわら半紙の書類をめくるたびにあらわれる「普通学」の文字。旧制中学の生徒と同じ勉強がしたくて、軍に志願した少年たちがいた。これもまた、のちの世代が知っておくべき戦争のリアルである。=毎週日曜日に掲載