今週の本棚:藻谷浩介・評 『川を歩いて、森へ』=天野礼子・著 - 毎日新聞


図書館に入ったら読んではみますが。。。。

リニア推進派に反対派にもなびく藻谷氏
EM信者で、ダムや長良河口堰問題から林業政策や森林問題に心変わりの天野氏
別に開高さんの直弟子じゃないと思うよ。

注意して読まないと(事情を知らないと)危険なんですよね。



以下記事

自然なモノと心の循環取り戻す未来

 あなたは、ささやかでもいい、世の中を変えたことがあるか。あるいはこれから変えたいと願っているか。それとも、もうあきらめたか。掲題書は、人知れず世の中を変えたことのある、いや今も変えつつある人物の自叙伝である。

 著者・天野礼子は、全国の河川を渡り歩いた釣り師であり、作家・開高健の直弟子であり、その後の公共工事のあり方に大きな変革をもたらした「長良川河口堰(ぜき)反対運動」のリーダーだった。現在は川の上流と下流と海をつないだエコシステムの再生を目指すキーワード「森里川海連環」を、国の政策から現場での実践までをつないで、世に広めている。なんだかゴリゴリの人物像が思い浮かぶが、会ってみれば、飄然(ひょうぜん)とした笑みを浮かべてあっけらかんと生きている、関西の普通のオバサマだ。だがその周囲では、いつも多くの男たちが、彼女の指示ないし懇願通りに使われ、世のため人のため自然のためと、走り回るはめになっている。

 そのような著者のこれまでをまとめた掲題書は、知る人ぞ知る女傑の痛快な回想録としても楽しく読み流せるが、できれば少々考えながら読んでほしいのだ、特に、昭和20年代後半に生まれた著者と同じ時代を、身をもって経験してきた方々には。凡(およ)そ自分自身に対して執着がなく、命にかかわる無茶(むちゃ)を楽しみながらやってしまう著者が、何をもってここまで「ダムのない川」に執着してきたのか。逆に言えば、彼女と同世代のあなたはなぜ、川という川を何重にもダムでせきとめてきた戦後を、特に抵抗なく受け入れてこられたのか、ということを。

 「○○反対運動」という言葉には、何がしか「了見の狭さ」というニュアンスが付きまとうものだ。だがダムの場合はどうか。ダムのない自然河川は、洪水を通じて森の栄養を里にもたらし、魚の遡上(そじょう)を通じて海の栄養を森に還す通路だ。そこをダムで遮蔽(しゃへい)することは確かに、遊水池機能を果たしてきた氾濫原農地の都市化を進め、戦後の人口爆発に対処するには有用だっただろう。だがそれは同時に、川を介した物質の循環を止め、自然が多年涵養(かんよう)してきた肥沃(ひよく)な国土の、末長い劣化をもたらすことになってしまった。しかもそこまでして開発した氾濫原は、人口が今の半分に戻る今世紀後半には、逆に農地に戻して差し支えない。今となってみれば戦後のダム建設こそ、「自然の大きな流れへの、人間の一時的な都合による反対運動」にほかならなかったのである。常に在野で、非力で、徒手空拳で戦ってきた著者だが、今世紀中には勝利は明確に彼女の側に立つだろう。

 というようなところが、硬めになぞった掲題書の本旨だが、他方で著者よりはるかに年下のこれから社会に出る世代、特に女性の皆さんには、ぜひまったく別の読み方をお勧めしたい。知ってほしいのだ、あなたより何世代も上に、会社員になるのでも家庭の中に納まるのでもなく、社会の真(ま)っ只中(ただなか)で肩肘張らずに、自分の信じるところを楽しく生きてきた女性がいることを。京都の山里の渓流でアマゴの鱗(うろこ)のきらめきを瞼(まぶた)の奥に焼き付けた少女が、やがて自らの直感に従って川を守る活動に身を投じ、何度もドジを踏みながら、好きなことを好きと言って生きていく。あなただって彼女のように、縛られずにしなやかに、自分のやりたいことにまっすぐに、巻き込まれつつも流されない人生を送れるはずだ。

 ダムだらけ、コンクリート構造物だらけ、組織だらけ、利益最優先だらけになってしまった日本だが、自然なモノと心の循環を取り戻す未来は、きっとすぐそこにある。