考える人


おそらく、今後はインターネット検閲などという権力言論統制が始まるのだろう。

メルマガより転載 

言論統制時代の実態

 検閲、伏字、削除、発禁、差し押さえ、筆禍……おどろおどろしいこれらの文字を見て、それが日常茶飯だった時代の具体的な風景を思い浮かべる人は、もはやほとんどいなくなりました。「安寧秩序を紊乱(ぶんらん)」、「造言飛語」といった罪にいつ問われないとも限らず、「言論弾圧」の恐怖と隣り合わせで仕事をしていた編集者の先輩たちが、80年前にはたくさんいたのです。

 石川達三。1905年秋田県生まれ。数々のベストセラー小説を世に送り出し、1985年に東京で没したこの作家を、2015年のいま思い出させるきっかけとしては、又吉直樹、羽田圭介という若い作家の受賞に湧く芥川賞が創設された80年前に、第1回芥川賞を受賞したのが石川達三だったという文学史的事実にまさるものはないでしょう。東北の農村からブラジルへ渡ろうとする移民の人々を描いた「蒼氓(そうぼう)」によって、太宰治、高見順といった有力候補を退けての「無名作家」の受賞でした。

 しかし、この作品が「文藝春秋」1935年9月号に掲載された時、伏字だらけであったという事実は、今回本書で初めて知りました。「彼女は…………………………女であった」というのは「彼女は身を護る術を知らない女であった」であり、「文句あ言われねえべ。××××の御飯でねえかよ!」の「××××」は天皇陛下、「××さ行きてくねえ」の「××」は兵隊といった具合。

 この1935年というのは、日中が全面戦争に突入する2年前ですが、美濃部達吉が30年来唱えてきた「天皇機関説」が、突然、軍部や右翼系論者によって「不逞(ふてい)思想」だとやり玉に挙げられ、政治問題化した年でもありました。美濃部はやがて著書が発禁処分を受け、貴族院議員の公職からも身を引くことになりますが、そういう不穏な世相の中で、「第一回芥川賞として華々しく打ち出す作品が、万が一にもいちゃもんがつくものであってはならない」と版元が判断し、多数の伏字を配したのだと思われます。

 3年後、石川の名前を文学史に刻むもうひとつの事件が起こります。日中戦争に従軍して戦場風景をリアルに描いた小説「生きている兵隊」によって、掲載誌の「中央公論」が発売禁止、作者および編集長、発行人の3人が起訴され、石川は新聞紙法違反で禁錮4ヵ月、執行猶予3年の一審有罪判決を受けます。

 それに対して菊池寛が、「文藝春秋」同年5月号に、「本誌は、思想問題で、注意を命ぜられたり切取りを命ぜられたことは今迄も絶対にないと言ってもよい位だ。今後ともその点は極力注意するつもりである」と述べていることも本書で初めて知りました。

〈菊池は元来リベラルな人間だったが、一九二九年に『文藝春秋』が発禁になったとき、経済的打撃を受けたことに腹を立てて、不注意な編集部員を辞めさせたという。発禁の次の号で一頁割いて釈明し、問題部分を切り取った雑誌を定価で売ったのは申し訳ないが、文藝春秋の財産の、少なくとも四分の一、多ければ半分にあたるほどの損害を受けたので、こういうときは文句を言わずに買っていただきたい、と読者に懇願している〉

 菊池寛という稀代の出版ジャーナリストの発言であるだけに、この時代の空気や現実感覚がよく伝わってきます。彼はまた、「自分は……絶対に発売禁止の危険を冒さないことを声明してあるし編集員にも発売禁止を警戒することを、よくよく言いきかしてあるのだが、直接編集者の頭の加減で、ああ言う馬鹿々々しい災禍を買ったのは残念である」(「文藝春秋」1929年11月号)とも述べています。第1回芥川賞受賞作の伏字は、その意味では当然すぎる配慮だったと言えるでしょう。現在の観点からすれば、自己規制が過ぎるとか、過剰適応ではないか、とか何でも言えそうですが、こういう状況に押し込まれた中で、人はどのような対抗手段を取り得るのか。いまの感覚で単純に裁断することは難しいでしょう。

本書は石川の「生きている兵隊」事件とは何だったのか、を丹念に検証するところから筆を起します。まず驚いたのは、その日――1938年2月19日の「東京朝日新聞」1面が全ページを、当日発売の「日本評論」と「中央公論」2誌の出版広告に当てていることです(いまの常識では考えられません)。そして「中央公論」の広告の左端に、よく見るとほんの小さな文字で、「創作に事故あり、陣容を新たにして近日発売! それまで御待ちあれ!」とあります。本来ならば、目玉商品の〈石川達三「生きている兵隊」〉の文字が大きく踊っていたはずのスペースです。

 別ページに「中央公論を発禁/『生きている兵隊』等忌諱(きき)に触(ふれ)る」の記事があり、事件が報じられています。何が「忌諱に触れた」かは明らかにされていません。

 私自身はこの事件から60年以上も後に「中央公論」の編集長職に就きました。それまでにも何度か必要があって、当時の関係者の証言、回想録(本書の参考文献として巻末に掲げられている)は、ほとんどすべてに目を通していました。それにもかかわらず、本書によって改めて発見することが数多くありました。たとえば、「生きている兵隊」が掲載にいたる過程、発禁処分が決まった後の出版社の対応などです。

 石川が中央公論社特派員として上海、南京に向け出発したのは、1937年12月29日です。戦地の様子は大本営や内地の新聞が伝えているのとだいぶ違うようだ、という石川からの提案で、2週間強の現地従軍取材の予定が組まれます。日程を消化し、東京の自宅に戻ったのが翌年の1月下旬。2月19日発売の3月号に間に合わせたいという中央公論社の要望で、2週間くらいでしゃにむに仕上げた330枚の原稿が、すべて編集部に渡ったのは2月12日未明とされます。そこからちょうど1週間後の発売日をめざして突貫作業が始まります

編集者は原稿内容を点検し、伏字の手当てをしなければなりませんが、ともかく時間の余裕がありません。ページを開けて待っていた編集部は、「そら来たとばかり」印刷所に原稿をまわします。組み上がってきた初校を見て、編集者たちが「伏字、削除、能(あた)う限りの手段」で検閲に備えます。発行人である出版部長が作品に目を通したのは、その作業を終えた校了刷でした。

〈読み出すと私の目は原稿に吸いつけられたようで、完全に魅了されてしまった。エネルギッシュで野心的な新進作家は、直接戦場を馳駆(ちく)して、その生ま生ましい現実を心にくいまで的確に把握している。[略]戦争について、こういう報道と描写を見たこともない私は、憑(つ)かれたもののごとくに一気に読み了(お)えた。そして吾にかえって愕然とした。これはとても通らない〉(牧野武夫『雲か山か』中公文庫)

 軍部が黙って見過ごすはずがないという判断です。しかし、掲載すべし、という編集長の決断でことは進行しています。やむなく、すでに回り始めていた輪転機を止めながら、鉛版を削ってさらに削除を加え、軍部を刺激しないようにぎりぎりまでの措置を講じます。

 不安はぬぐいきれなかったようですが、発売前日には作者と担当者は銀座でささやかな祝宴を張ったといいます。ところが、その日のうちに発禁処分は決定していました。「携帯電話もない当時のこと。外に出てしまった編集者と作家に、連絡は届かなかったようだ。翌朝早くに警視庁から電話で出頭を命じられ」、担当者は初めて事態を知ります。

〈すでに書店に出回った雑誌が、各警察署に押収される。出版社は雑誌を売らなければ収入が得られない。それで、問題の作品だけを切り取って、残りを発売するための「分割還付」申請をする。認められれば、警察署に行って当該雑誌から問題とされたページを切り取って、雑誌をもらい受け、それを発売するのである〉

つまり、全社員が手分けをして各警察署をまわり、押収された雑誌から問題箇所だけを切り取って「改訂版」を作成し、それらをもらい下げてくるのです。当時の「中央公論」の発行部数が約7万3000部。全冊が回収されたわけではないにせよ(約1万8000部が差し押さえを逃れ、それが海外で翻訳されるなど後々問題をこじらせます)、尋常の数ではありません。

 3月号は全体で約600ページ。そこから106ページ分を切り取ります。発禁馴れした社員はいつの間にかこの作業に習熟し、発禁対策用に「削除専用小道具」を考案した人間までいたといいます。それにしても当時80名足らずの社員で、押収された約5万5000部を処理するとなれば、単純計算でも1人あたり700冊近くを切り取らなくてはなりません。たいへんな肉体労働です。その間じゅう、胸にどういう思いが去来していたか、想像するだけで暗澹たる気分に襲われます。

 さて、本書から話がややそれてしまうのですが、戦後になって石川達三が毎日新聞に連載した『風にそよぐ葦』(1949〜1951年)がこのほど上下巻2冊の文庫本として刊行されました(岩波現代文庫)。悪名高い「横浜事件」などの言論弾圧に抗した当時のインテリ群像を描いた社会小説です。全部で優に1000ページを超える大作ですが、意を決して読んでみました。石川達三の練達の筆によって、長さをまったく感じさせない作品でした。

 上巻の109ページでいきなり有名な場面に出会います。情報局に出頭を命じられた新評論社社長の葦沢悠平(中央公論社社長の嶋中雄作がモデル)が、そこで「日本思想界の独裁者」(清沢洌『暗黒日記』)と恐れられた、「年のころまだ三十二、三にしか」ならない佐々木少佐から厳命を言い渡されます。

「君の雑誌は今後、毎月十日までに全部の編集企画を持って来て見せること。よろしいな。提出されなかった編集企画は一切掲載をゆるさないことにするから、承知して置きたまえ。用件はそれだけだ」

 葦沢社長が反論を試みると、激昂した佐々木少佐は机の上の「新評論」を平手でふたつ叩いて、言い放ちます。

「……今はどんな時代だと思っとる。国民ことごとく戦争に協力しとるんだ。個人々々の立場なんかすべて犠牲にして居るんだ。一番大事なのは誰の立場か。言って見ろ! 国家の立場だ。国家の立場を無視して自分の雑誌の立場ばかりを考えて居るからこそ、こういう自由主義の雑誌をつくるんだ。君のような雑誌社は片っぱしからぶっ潰(つぶ)すぞ」

 この小説は大評判となり、ほどなく映画化されました。言論弾圧の鬼のごとく、悪の権化として描かれた佐々木少佐のモデル――「泣く子も黙る」と言われたスズクラこと鈴木庫三(くらぞう)少佐の実像がいかなるものであったか。極貧から身を起こした個性が辿ったその劇を、彼の日記から丹念に解き明かした労作が、佐藤卓己氏の『言論統制』(中公新書)です。

 これによれば、鈴木少佐はいわゆる大言壮語の軍人タイプ(サーベルをガチャガチャ鳴らして、およそ知性のかけらもなく、粗暴で愚昧な)とは異なり、刻苦勉励型の謹厳実直な真面目人間で、そのあまりの実直さ、融通が利かない頑なさが知的エリートたちに忌避されたという側面が浮かび上がります。所与の現実の中でその時代の空気を吸い、「よかれ」と思って行動した一人ひとりの人間の意思決定には、重い問いかけが含まれます。単純な類型化では片付かない、時代や人間の本質についての粘り強い思考が必要です。言論統制は長い時間をかけながら、一人ひとりの体をゆっくり締め上げていたのです。

 ともあれ、1944年7月10日、新評論社社長と改造社社長は情報局第二部長から出頭を命じられ、「新評論、改造両社の営業方針は戦時下国民の思想指導上許しがたいものがあるから、自発的に廃業せよ。両社はその社名、権利、雑誌題名、その他一切を他人に譲り渡すことは許さない」と宣告されます。

 こうして実際に自主廃業に追い込まれた中央公論社は、7月31日に大東亜会館(現在の東京會舘)で最後の会食を開きます。「社員七九人中、入隊や検挙で欠けたものも多く、出席は四〇名。海草のスープにイルカのカツレツというさびしいメニュー」で、入院中の嶋中雄作社長からは「お別れの言葉」が寄せられました。

〈……思えば永い間の悪戦苦闘でした。今日刀折れ矢尽きた形で退却しますけれど、思い残すことは何一つありません。国家の為に良かれと思った我々の誠意は、何時の日にか必ず認めらるる日のあるのを信じます。過去五十九年の足跡は厳として我が文化史の上に遺るでありましょう。この際我々は何も云わないで、大波の退いて行くような形で、何の跡形も残さないでこの世から消去りたいと思うのです。為すべきを為しつくした人間の最後はかくあるべきだと云うことを、皆さんの態度に於て示して下さい……〉(『中央公論社の八十年』)

「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
写真協力・岩波書店