東京新聞:2500万人 知らぬ間に義勇隊:伝言 あの日から70年:特集・連載(TOKYO Web)


東京新聞 良い仕事してます。
後方支援という名の戦争突入。

戦争草案に同意して9条を変えるんですか?>公明党さん

僕は支持政党なしですが、志位さんの質問は素晴らしかったと思う。
それに引き換え、辻元氏に「質問早くしろよ」とやじる国家首領。

まあ、彼にとっての首領様はアメリカ様なのでしょうが。

以下記事

戦争末期、本土決戦が避けられないと判断した政府と軍部は、なりふり構わぬ構想を抱いた。「国民義勇隊」。後方支援に加え、銃後の人々にも敵軍に立ち向かうよう求めた。隊員は二千五百万人以上と想定され、多くの人々が知らぬ間に隊に組み込まれた。それは病を抱えた人も例外ではなかった。 (沢田敦)

 「自分の身の始末ができないようでは、他の足手まといになります」「前線にある皇軍将兵は(略)現地自活の体制を固めていることは、私共の頭を垂れて傾聴すべき事実であります」

 熊本県合志(こうし)市のハンセン病国立療養所「菊池恵楓(けいふう)園」に記録が残る「義勇隊員必携の栞(しおり)」には、自活を求める言葉が並ぶ。「とにかく『他人の手を取らせるな』と言われましたがね」。入所者の土井繁さん(87)は戦時中の記憶をたどった。

 土井さんは十歳の時、皮膚がただれ、手足が変形することもあるハンセン病にかかった。感染力は極めて弱く、今は薬で治るが、国の政策で園内での生活を強制された。

 一九四三年、十六歳になると園の青年団に入った。当初は演劇など入所者向けの出し物が主な活動だった。それが、運動場を開墾してサツマイモなどを育て、防空壕(ごう)で不自由な入所者を世話するように変わっていった。

戦時中の記憶をたどる土井さん。現在はほとんど視力を失っている=熊本県合志市で
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 園の職員や青年団の幹部から「戦地の兵隊を思え」と口酸っぱく言われた。土井さんは「毎日何かしていないと、非国民のような雰囲気だった。敵が来たら、殺し合いもしたかもしれない」と振り返った。

 土井さんには、国民義勇隊に所属していたという記憶はない。しかし、土井さんがしていたのは義勇隊の活動そのものだった。

 義勇隊は四五年三月に創設が閣議決定され、五〜六月、全国各地の職場や地域で組織された。記録によると、園では同年六月に職員と入所者で結成し、任務は防空や防衛、食糧増産、空襲被害の復旧、物資輸送だった。最前線で戦う「義勇戦闘隊」になり得るとも定めていた。

 戦時下での入所者の活動を調べている同園学芸員の原田寿真(かずまさ)さん(29)は「戦争への協力を明確にするため、青年団を義勇隊に移行させていた。日々の活動に大きな変化はなく、義勇隊員になった意識のない入所者が多かった」と語る。

 園と同様に、全国各地でも知らないまま義勇隊に組み込まれた人は多い。政府や軍部はこうして国民全体を本土決戦に動員する態勢を整えていった。
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1945年3月、鹿児島県志布志湾岸の砂浜で竹やり訓練をする女性たち=志布志市教育委員会提供
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◆女性、障害者…根こそぎ

 戦争末期、国は町内会や婦人会、青年団、学校を通じ、女性や障害者まで根こそぎ、戦争へと組み込んでいった。その総仕上げとも言えるのが「国民義勇隊」だった。知らぬ間に多くの人々が一員となり、竹やりの特訓などを強いられた。そして、義勇隊が動員された広島に原爆が落ち、多くの人命が失われた。
◆強いられた竹やり 飯田さん、牧さん

飯田イソさん
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 「こんなまねやって、何で勝てるかと思いましたよ。そんなこと言えんかったですけど」

 飯田イソさん(92)=千葉県大網白里市=は、七十年余り前を振り返り、ぽつりと漏らした。

 「こんなまね」とは竹やり訓練のこと。飯田さんは戦況が悪化した一九四三年ごろから駆り出されていた。地元の青年団などに入っていたためだった。そして、国は一九四五年三月以降、本土決戦への態勢を整えるため、全国の青年団を義勇隊に組み込み始めた。

 飯田さんの住む千葉の九十九里浜は当時、米軍の上陸が想定されていた。それだけに訓練は厳しかった。近くの小学校に集まった団員には、女性も多かった。指導役の在郷軍人は容赦なく銃で突っついたり、尻を引っぱたいたりした。

 「『エイ、ヤー』と言っては、竹やりを持って校庭を駆けてね。みんな『やだ、やだ』と言ってた」

牧愛子さん
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 銃を持った米兵に立ち向かうには、竹やりでは粗末すぎる。二十歳を超えたばかりの女性の目にも明らかだった。

 やはり米軍の上陸が想定されていた鹿児島県でも、多くの女性が竹やり訓練に励んでいた。

 「なぜか『精神の乱れー、一、二、ヤー』と校庭で声を上げ、練習しましたね」。鹿児島市の牧愛子さん(87)は志布志高等女学校(鹿児島県志布志市)に通っていた当時を思い出す。近くの砂浜では婦人会の女性らも訓練に励んでいた。

 牧さんは四四年二月、女学校の卒業式を一カ月繰り上げ、女子挺身(ていしん)隊員として鹿屋(かのや)航空廠(しょう)に配置された。日の丸の鉢巻きを締め飛行機の部品の製図を続けた。

 「神風が吹いて日本が勝つ」。信じていたその日は来なかった。

 終戦の日、米軍が上陸したといううわさが流れた。酷暑の中、牧さんは鹿屋から八時間歩き、志布志の自宅にたどり着いた。

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国民義勇隊の原爆による被害を紙芝居で語り継いできた木村秀男さん=広島市西区で
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◆紙芝居で被爆伝承 木村さん

 国民義勇隊の動員で悲劇も起きた。

 四五年八月六日、隊員一万一千人が広島市の中心部に集められていた。建物を撤去して防火帯を造り、空襲による延焼を防ぐ「建物疎開」の作業にあたるためだった。そこに原爆が落ちた。半数近い四千六百人余が命を落とした。

 「国民義勇隊は仕事中に熱線で大やけどを負い、皮膚は垂れ下がり、肌は露出して助けを求めている」

 国民学校高等科の一年生だった木村秀男さん(82)=広島市西区=は、学徒動員で建物疎開作業に向かう途中で被爆し、被害に遭った隊員を目撃した。

 やけどの熱を冷まそうと水につかったまま、大勢が息絶えて沈んでいった。初めて作業に向かった隣町の人々の姿もあった。「女性が多かった」と木村さんは声を落とした。

 原爆の惨状を紙芝居で子どもたちに語り継ごうと、木村さんは十年ほど前から絵を描き、その数は約八百枚に上る。義勇隊員の話は、二カ月かけて二十枚の紙芝居にまとめた。

 「あの日のことは、いまだに夢に出てくる。あのような物がある限り、人類滅亡の日がやってくる」

大瀬戸正司さん
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◆「動員が原爆被害拡大」大瀬戸さん

 広島平和記念資料館は五年前、国民義勇隊の企画展を開いた。担当した広島市職員の大瀬戸正司さん(51)は「動員がなければ助かった人も多かったのではないか。国民義勇隊による動員が原爆の被害を大きくした」と語る。

 展示に向けた資料集めは難航した。

 国は青年団などを義勇隊に編成し直しても、末端にまで届いていなかった。資料の焼失や散逸はもちろん、隊員だったという自覚がなかったことも要因だ。覚悟がないまま、多くの人が本土決戦の準備に駆り出されていたことになる。

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◆「聴覚生かせ」阿佐さん

阿佐博さん
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 障害のある人たちも戦争への協力を強いられた。

 「敵機爆音集」と題した四枚組みのレコードがある。千葉陸軍防空学校が監修し、米軍爆撃機「ボーイングB17D」など計四機の高度を変えた飛行音が収められている。

 「軍人から『君たちの鋭い聴覚がお国の役に立つ』と言われてね」。東京盲学校(現筑波大付属視覚特別支援学校)に通っていた阿佐博さん(93)=東京都板橋区=は話す。

 幼いころに事故で失明し、師範部の学生だった四二年ごろ、音で敵機の来襲を察知する防空監視員の候補生に選ばれた。放課後に週一、二度、レコードを聞き、機種や高度を答えた。

 「役に立つとは思わなかった。だって音が聞こえた時、飛行機はすぐ近くに来ているわけだから」

 阿佐さんが苦笑するように、同校からは任務に就いた人はいなかった。

 しかし、石川県七尾市では実際に配置された。昨秋に百歳で亡くなった近江谷勤さんがその一人。周囲に「私のような者でも国のお役に立てるとうれしかった」と話していたという。

岸博実さん
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◆「負い目逆手に」岸さん

 視覚障害者の戦争体験を調査する京都府立盲学校非常勤講師の岸博実さん(65)は、「兵士になれないという視覚障害者の負い目を逆手に取り、戦争に駆り出した」と政府や軍部を批判する。 (沢田敦)

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<国民義勇隊> 対象は国民学校初等科修了から男性65歳、女性45歳までで、病弱者や妊婦以外はなるべく広く含むとされた。当初は防衛と生産を目的とし、官公庁や会社、工場は職場ごと、その他は地域ごとに、全国各地で結成された。閣議決定から3カ月後の1945年6月に施行された義勇兵役法で戦闘に参加する「国民義勇戦闘隊」への移行が決まった。本土決戦の際には2500万人以上を動員する構想だったが、想定された武器は竹やりなどだった。戦後、国民義勇隊は「準軍属」とされ、建物疎開などの作業中に亡くなった隊員4000人以上の遺族に弔慰金が支給された。
◆本土決戦の人柱に
◇纐纈(こうけつ)厚さん(64)山口大副学長
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 陸軍を中心とする戦争指導部は一九三八年の国家総動員法以後、矢継ぎ早に二百以上の法律を制定し、物から人間まで戦争への資源としていった。戦局が絶望的となっても戦争終結の道を求めようとせず、むしろ本土決戦態勢を固める方針を打ち出していった。

 その一つが国民義勇隊だった。「義勇」は「強制」の対義になる。しかし、自発的に組織されたというのはカムフラージュで、実際は国家による強制だった。多くの国民は知らぬ間に組み込まれ、知ったとしても拒否はできなかった。

 四五年三月二十三日に組織化が決まった背景には、一夜にして十万人以上が犠牲になった同月十日の東京大空襲の衝撃があっただろう。そして、沖縄が陥落する六月には義勇兵役法を施行。義勇隊を発展させる形で十五〜六十歳の男子、十七〜四十歳の女子を国民義勇戦闘隊に組み入れた。

 当時、本土防衛の兵力はほとんど空で、義勇戦闘隊に配給する武器も皆無に近かった。竹やりなどを武器にしようとしていたことが、それを裏付けている。近代兵器で重武装する敵軍に対して「素手」で戦うよう求めたのだ。

 戦争末期、指導部は東京に近い千葉県九十九里浜への米軍上陸をもっとも恐れた。その際、多数の義勇兵を人柱にし、質より量で正規軍のために時間を稼ごうとしたとみられる。

 もっとも、武器を持たない義勇隊が戦力になるとは、指導部も考えていなかっただろう。創設の本当の狙いは、本土決戦を控えて国民に広まりつつあった厭(えん)戦機運を払いのけることだったといえる。