資料館日記: 「八巻太一(やまき たいち)展」 開催中


須玉町江草の出身だという八巻。

無教養なおいらは何も知らなかった。

沖縄昭和女学校 

勉強します。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-157402-storytopic-212.html
より
転載

 昭和10年代後半―。その当時の17、8歳といえば女性は新陳代謝が最も活発で髪の毛一本一本にツヤがあり、ほおもほんのりと赤味がさして素顔が美しい時期だった。いろいろな夢や希望を抱いていたに違いない。

 戦争中女子学徒隊のほとんどの人が栄養不良とショックで生理が止まったと聞く。中には捕虜になった途端に出始めたという人もいる。戦争は命を奪うだけでは飽き足らず生きている少女たちの生理的機能をも狂わせた。

 昭和56年6月23日「慰霊の日」―。糸満市伊原にある昭和高女の戦没者を祭った梯梧之塔で23人の学友を失った4人の婦人がひっそりと写真撮影をしていた。彼女らはこの日つぼみのまま枯れ、咲くことを許されなかった亡き旧友たちの魂を慰めた。塔には花がたむけられささやかな果物が供えられた。周囲にはほのかな線香の香りが立ちこめていた。

 4人の婦人は、高見(旧姓小嶺)幸子さん(58)=那覇市楚辺=と稲福(旧姓浜元)マサさん(56)=浦添市宮城、それに諸見川(旧姓潮平)美枝さん(58)=伊是名村諸見=らで私立沖縄昭和高等女学校の12期生。

 「戦後、ひめゆり部隊を描いた映画を見ました。実際の戦争はそんな生やさしいものではありません。どんなに優れた作家や映画監督でも描けません。その恐ろしさは体験した者でないとわかりませんよ」と諸見川さんは強調した。

 終戦後の昭和23年6月、他の女子学徒隊に先がけて羽地国民学校で同窓生20人、遺族20人、八巻太一校長、職員らが参加して慰霊祭が行われた。その後も数回慰霊祭が行われたが、その存在はあまり知られていない。

 昭和高女は昭和5年3月に八巻太一(山梨県出身)校長によって那覇市崇元寺町(現泊)の西南に設立された。商店・会社・銀行の事務員養成を主目的としてそろばん、簿記、英文・和文タイプなどが主要科目の商業校であった。昭和15年の沖縄県統計書によると職員12人、在学生177人、入学生91人、卒業生57人となっている。

 昭和高女12期生31人は昭和20年3月6日に第62師団(石部隊)野戦病院、通称石5325部隊に看護隊として配属された。学校のあった崇元寺の美しい梯梧並木と梯梧の花をあしらった校章から後に「梯梧隊」と呼ばれるようになった。彼女らの母校は沖縄戦で消滅、遂に卒業証書を手にすることができなかった。

 梯梧之塔は昭和高女の慰霊の塔で最初八巻校長らによって崇元寺町の校庭跡に建立され、その後同窓生らによって糸満市伊原に移された。最初に建てられた塔は崇元寺近くにまだ残っている。

 梯梧之塔には石部隊と共に南部の激戦地伊原まで移動した7班と8班の梯梧学徒隊の戦没者8人と沖縄戦で戦死した他の生徒、職員ら54人が合祀(ごうし)されている。

 7班に途中まで所属、行動を共にした照喜納(旧姓屋富祖)節子さん(57)=南風原町宮平=は沖縄戦で父親と幼い妹を失った。照喜納さんは「戦争は二度と起こってはならない。何年たっても同期で亡くなった人たちが忘れられません」と嗚咽(おえつ)をもらした。「戦争で亡くなった旧友は私たちの礎です。線香の煙を絶やしてはいけません」と言う照喜納さんの声はズッシリと重たい。

 昭和19年の10・10空襲前のまだ平穏なころ、昭和高女12期生31人は崇元寺の校舎で石部隊野戦病院の軍医、下士官4、5人から内科や外科に関する救急措置の理論を学んだ。看護講習を終えて、20年3月6日に彼女らは首里赤田町の石部隊病院壕へ入隊。山城という民間の家に宿泊しながら実習を学んだ。

 実習の全課程を終えないうちに予定が早まり、実習生たちは南風原町新川のナゲーラの壕に移動した。米軍が慶良間にまだ上陸しないころだった。

(「戦禍を掘る」取材班)

1984年8月7日掲載

2011年朝日新聞の記事
沖縄の女子教育に尽力、八巻太一に光 山梨の高校生ら

 戦前・戦中の沖縄で女子教育に心血を注いだ山梨県出身の教育者八巻太一(やまき・たいち)。山梨県内の高校生が戦後初めて、修学旅行先の沖縄で八巻の教え子に会い、看護隊として沖縄戦で亡くなった女学生をしのぶ慰霊塔に献鶴した。八巻が沖縄に渡って今年で丸100年。八巻を顕彰する動きが前進している。

 15日。修学旅行で沖縄県糸満市を訪れた甲府一高の生徒たちが「梯梧(でいご)之塔」の前で立ち尽くした。この塔は、沖縄戦で命を奪われた女学生の霊を慰める「ひめゆりの塔」のすぐ近くにたたずんでいる。

 梯梧之塔は八巻が那覇市につくった旧昭和高等女学校の女学生による学徒看護隊「梯梧隊」の悲劇を伝える。1950年に八巻が校舎の跡地に建立し、71年に移転された。

 「来てくれてありがとう」。生徒たちは、八巻を知る数少ない同窓会「梯梧会」の女性会員8人に出迎えられた。顔に刻まれた深いしわ。20人程度しかいない会員の平均年齢は80歳を超える。

 英文タイプライターの指導をはじめ、先進的だった八巻の実践教育や、爆死や自決などで17人の隊員のうち9人が絶命した梯梧隊について5代会長の稲福マサさん(85)が語りかけた。

 修学旅行の事前学習で八巻や梯梧隊を採り上げた2年生の深沢芽来(めぐる)さん(17)は「私財を投じて沖縄に学校を造った。尊敬しています」。2年生で生徒自治会長の西野四季さん(17)も「こちらこそありがとうございましたという気持ちでいっぱいでした」と語る。

 戦後66年間、山梨県内の修学旅行生が学校単位で梯梧之塔を訪れることはなかったというが、今年は韮崎、甲府東両高校の生徒も足を運び、祈りを捧げた。