有田芳生の『酔醒漫録』: 木村久夫遺書全文を公開する
有田さんのライフワークでしたが、東京新聞にスクープされてしまったようです。でも有田さんに悔いはないでしょう。
有田さんのFBより引用

〈「BC級戦犯」として28歳で処刑された木村久夫さんの「もうひとつの遺書」を東京新聞がスクープした。記者は「きけ わだつみのこえ」に掲載された遺書は恩師(塩尻公明)による編集としている。私は木村さんの父が最終的にまとめたものと判断している。『哲学通論』に記された遺書全文を公開する〉(ツイッターから)。

 木村久夫さんの「ふたつの遺書」はシンガポールからどのようにして日本の遺族に届いたのでしょうか。そうした経緯とともに木村さんの短くも輝かしい青春を単行本『X』に書く予定でした。冒頭部分を書いてから6年が経ちました。国会に行っても「日曜作家」として書けるだろうと思いながら、ここまできてしまいました。単行本には資料として「ふたつの遺書」を掲載するつもりでした。しかし昨日の東京新聞が「もうひとつの遺書」をスクープしたので、ここに田辺元『哲学通論』に記された遺書全文を掲載することにします。写真は書き出し部分です。なお岩波文庫の「決定版」とされた「きけ わだつみのこえ」が、いかに本当の遺書と異なっているかを示す写真も示しておきます。なおツイッターで書いた「木村さんの父がまとめたもの」について補筆しておきます。

 木村さんが亡くなったことは英軍から送られてきた遺髪と遺書で家族は知ることになりました。1946年5月23日に処刑が行われ、しばらく経ってからのことです。父の久さんは翌47年1月3日に恩師だった塩尻さんに息子の死について手紙を書きます。高知から大阪・吹田の木村宅に着いた塩尻さんは、木村さんの書斎で『哲学通論』に書かれた遺書を原稿用紙に記します。それと「もうひとつの遺書」を合わせた内容を「或る遺書について」(「中央公論」48年)で紹介し、大きな話題を呼びます。やがて東大生協によって「きけ わだつみのこえ」への募集が行われました。そこに世間が知ることになり、いまも私たちが眼にすることができる「きけ わだつみのこえ」(岩波文庫)に収録された遺書を送ったのは、久夫さんの父である木村久さんでした。「ふたつの遺書」を恩師が編集し、さらに父が手を加えて世間に公表されたという経過です。






2008年の読書メモ 中村克郎先生は2012年逝去 わがつみ会元理事長

わだつみ平和文庫が甲州市(旧塩山市)に危篤中の中村克郎氏に代わり長女の中村はるね医師により開館された。10万冊以上におよぶ書籍から約3万冊が展示されている。
克郎氏は下記徳郎氏の弟である。

中村徳郎
昭和19年6月20日午前8時

父上母上様。弟へ。
門司市大里御幸町 辰美旅館        徳郎

何もかも突然で、しかも一切がほんの些細な運命の皮肉からこういうことになりました。しかし別に驚いておりません。克郎(弟)に一時間なりとも会うことが出来たのはせめてもでした。実際は既にその前日にいなくなっているはずでした。そうしたら誰にも会えなかったのです。
中略
最も伴侶にしたかった本を手元に持っていなかったのは残念ですが致し方ありません。それでも幾冊かを携えてきました。
中略
今の自分は心中必ずしも落ち着きを得ません。一切が納得が行かず肯定が出来ないからです。いやしくも一個の、しかもある人格をもった「人間」が、その意思も意志も行為も一切が無視されて、尊重されることなく、ある一個のわけもかわらない他人のちょっとした脳細胞の気まぐれな働きの函数となって左右されることほど無意味なことがあるでしょうか。自分はどんな所へ行っても将棋の駒のようにはなりたくないと思います。
 ともかく早く教室へ還って本来の使命に邁進したい念切なるものがあります。こうやっていると、じりじりと刻みに奪われてゆく青春を限りなく惜しい気がしてなりません。自分がこれからしようとしていた仕事は、日本人の中にはもちろんやろうという者が一人もいないと言ってよいくらいの仕事なのです。しかも条件に恵まれている点において世界中にもうざらにないくらいじゃないかと思っています。自分はもちろん日本の国威を輝かすのが目的でやるのではありませんけれども、しかしその結果として、戦いに勝って島を占領したり、都市を占領したりするよりもどれほど眞に国威を輝かすことになるか計りしれないものがあることを信じています。
 自分をこう進ましめたのは、いうまでもなく辻村先生の存在が与って力ありますが、モリス氏の存在を除くことが出来ません。氏は自分に、真に人間たるものが、人類たるものが何を為すべきかということを教えてくれました。また学問たるものの何者たるかを教えてくれたような気がします。私はある夜、西蔵(チベット)の壁画を掛けた一室で、西蔵の銀の匙で紅茶をかきまわしながら、氏が私に語った"Devote yourself to Science."という言葉を忘れることが出来ません。